2004年06月30日

闇の中の光

 今日制作実習のメンバーで集まった。ねたはTGで固まっている。後は切り口だけやねんけどそっからがいきずまり。それぞれ主張を持ってきて最終的には主張を3つまで絞った。@色んな認識を提示して、もっと知識の普及を図る。ATGの人は女性になるために1000万必要な社会。その資金をためるために夜の仕事をせざるを得ない。社会が見た目と中身の性の一致を図るとともに、TGの存在を夜の社会に閉じ込めようとしているという主張。
@は前回の「性と夜の二重圧力」で否定した。AはTGと同性愛の絡みがややこしい。映像的ではないかもってことで却下。んでBに決定した。
B夜の仕事をする、性転換という二重の圧力を受けてまでなぜ働き、性転換を決意するか。なぜ夜の仕事をするのか?社会は選択肢がないから夜で働くというかもしれない。しかし主体的に夜の仕事を選択したとする。つまりいやいや選んだのでなく積極的に選び取った。ネガティブでなくポジティブな選択理由である。前者は街の声。後者はゆかりさんのインタビュー。
積極的に選択した理由?なぜ二重圧力かかるのにやるか聞く。社会に出るのはリスクが高いから夜の世界に逃げたのではない。何も言わなくても自分が認められる空間に居場所を見つけたとした。一般社会では事情をいちいち聞かれる。それを毎回説明し、奇異の目で見られ、受け入れられないストレスは相当なものである。夜の世界では仲間も客も事情を受け入れているし、肯定もしている。確実に受け入れられることでアイデンティティーを得られる。私たちの質問+ゆかりさんインタビュー。
夜の世界の見方+対処法?社会はオカマバーを変な場所、閉鎖的な空間などネガティブな視線で見るかもしれない。知識人はできるだけ知識を広め、社会に出そうとするかもしれない。それに対して私たちの主張は、社会の奇異の視線がなくならない以上、社会では異性愛社会の掟に従わなければならない。ストレスは持ち続けなければならない。社会の視線を変えることはなかなか難しい。よってその欲望を解消する場として夜の社会は必要である。社会に引きずり出すことより、夜の社会を認めるべきである。前者は専門家、知識人、街の声インタビュー、後者はゆかりさんのインタビュー+自分たちの主張。
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2004年06月29日

論文 聖職者と社会U

 この前の聖職者論の続き。昨日またまた聖職者が問題を起こした。教え子をホテルに呼び出しわいせつ行為をしたとのことだった。また早稲田の教授の事件。これらの事件を考えていると自分の論の危うさを感じてしまった。つまり匿名性の危険さである。このような事件に対して、「聖職者なのに・・・」という意見は的外れである。むしろ「聖職者だからこそ起こる事件」なのである。そのことに気づいた。
 聖職者は一般人と異なる点が2つある。1つに性規範の違い。一般人はしてよいこと悪いことの境界は性規範と法によって定められる。Hサイト、風俗は良いがレイプや痴漢はいけない。法>性規範の関係によりその境界が形成される。しかし聖職者はどうだろうか。性規範>法になっているように思う。つまり法はあまり関係ないのである。そしてその代わり一般人より厳しい性規範によって厳格に規制される。つまりレイプ、痴漢はおろか風俗、Hサイトも禁止される。その中で聖職者が欲望を行使するときレイプもHサイトも同じ位の罪の意識なのではないか。性規範を破るという意味において両者に違いがないのである。ここでは一般人の論理は通用しないこともわかる。基準が異なるからである。
 そしてその規範破りを隠すために匿名的であろうとする。性規範を破っていることを認識しているからこそ匿名にこだわる。Hサイトなら何の問題もない。しかしレイプ、痴漢、のぞきなどはどうであろうか。一般人の規範や法の観点からいえば大問題である。しかし聖職者からするとHサイトもレイプ、痴漢、のぞきも相対的な差でしかない。むしろ風俗や雑誌などと違い匿名性があるぶんこっちに流れやすいといえる。
 二つ目の違いは権力の違い。一般人では権力が使えるといってもたかがしれている。更に外的権力であるゆえに力も弱い。しかし聖職者はどうか。権力関係は強く、しかも内から作動することで力を増す。この権力の強さが性的虐待を生む。被害者はなかなか断れず秘密も守るのではないか。そして聖職者は匿名性を保ちつつ欲望を行使していく。風俗や雑誌などの危険を避け、より確実に匿名性を保ちつつ欲望を行使する。
 これは聖職者が「自分は普通の人間である」と思うことで、良いと悪いの基準が一般人に近づく。それにより、極端な性規範>法の形態は解消される。しかしまだ匿名性を持たなければならないことには変わりなく、一線を越える可能性は持ったままである。どうすれば良いのか。聖職者の見方を変える必要があるのだろうか。それとも聖職者は聖職者たる性規範に従うべきなのか。理想的かもしれないが前者になるのだろうか。(こうへい君の意見にのっちゃいました)。でもやっぱ同性愛認めようとかと同じくらい難しいと思う。
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2004年06月28日

尾崎を通して見た「愛・夢・自由」

 教育社会学の「尾崎論」を学んだあと自分なりに解釈した小レポートです。基本的に尾崎の世界観とは異なるんやけど、尾崎の歌詞を聞いてて浮かんだ論でする。
「愛・夢・自由」というのは市民社会の外にあるものではないと思う。むしろ市民社会の中にしかない。市民社会が成立していく上で生成されてきた産物である。そういう意味で私は「愛・夢・自由」を市民社会の3つの神器と呼ぶ。
 その3つの要素を1つ1つ検証する。まずは愛である。市民社会の外に恋愛というものは存在するのだろうか。好き嫌いの感情はあるかもしれないが、市民社会のように恋愛感情を特別な感情にしてはいない。市民社会は、同性愛・近親相姦を強烈に禁止するために恋愛という感情を生成したのではないだろうか。
 次に夢。市民社会の外に夢はあるだろうか。身近な目標はあるかもしれない。しかし抽象的で達成困難なものはない。市民社会は、市民に常に夢を持たせ、夢を達成すれば新たな夢を持たせ、夢を持たないものは排他する。この様に夢は、市民に常に目標を持たせ発展・成長を強要する。
 最後に自由。もし不自由というものがない社会、つまり秩序がない社会においては自由の概念は存在しない。不自由というものがある社会にはじめて自由が求められる。市民社会はその不自由というものを気づかせないために自由を強調する。しかしそれは所詮秩序の中の決められた範囲の自由である。
 これらの市民社会の3つの神器は、市民社会生成において生じるさまざまな不都合さりげなく隠蔽するための3つの道具であるといえる。
 中には、3つの神器が市民社会の産物と気づく人もいる。しかし「愛・夢・自由」を市民社会の外に求めることは無理である。3つの神器は市民社会の産物であるからである。私たちはそのような市民社会を生きるためにはどうしたらいいのか。私の答えは尾崎豊から引用しよう。「豚を食うな、鉄を食え」である。
 「豚を食うな」は市民社会にどっぷりはまっている豚にはなるなということである。逆に「鉄をくえ」は、たとえ市民社会がつくり出したもの、つまり3種の神器であっても食いながら生きろ、死ぬなということである。この息苦しい市民社会の中で、嘘で作られた「愛・夢・自由」であっても、与えられたものをそのまま受け入れるのではなく、自分でそれらを逆に能動的に利用しながら生きる。与えられたものからずらし続ける。私たちは、市民社会を巧みに生きるために、用意された市民社会の3つの神器を逆に利用することが必要である。
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2004年06月27日

夜と性の二重圧力〜精神医学の権力〜

 制作実習で「性同一性障害者」についてやることになった。ネタは良いが切り口がだめという評価。ねたを考える中、専門家である医者に話しを聞こうという意見が班の中で強くなる。私は権力側からの話では、いいねたにならないと感じたので論理的に反抗したいと思う。
 医者と患者の持つ力関係。それはきれいごとでは終われない。医者がいくら正義にあふれていようが、患者を大事にしようが、そこには権力が発生する。正義感にあふれたジャーナリストがマイクを向けたときに、不可避的に権力が発生するように。
 社会は正常と異常というものを分けたがる。そしてその境界を定め、正常化を試みるものは何か。1つには道徳である。そしてもう1つは科学という鎧をまとった精神医学である。医学が肉体の正常と異常を定め、正常化を図るように、精神医学は精神をの正常以上を定め、正常化を図る。
 精神医学は「性同一性障害者」というものを認めたようだ。しかし、精神医学が認めるということは、異常・病理と認めたことになる。名指しの権力である。名指すことではっきり病理として扱われる。あくまで正常化を目的に。
 その中で患者はどういう対応をとるのだろうか。精神医学にオッケーの印をもらうことが目的なのだろうか。おそらく精神医学にオッケーをもらうことは本当の自分を疎外することになると思う。つまり精神医学が提示する「性同一性障害者」にならなければならない。じゃあ結局どうすれば良い?と聞かれると言葉につまるのですが。
 おそらく現在社会で許容されるのは、異性愛の範囲であると思う。女になった人は、女性の格好をし、性器を女性器にし、男性を愛することを強要される。逆に男になる人は、男性の格好をし、性器を男性器にし、女性を愛することを強要される。これはインタビューしないとわからないことである。してもわからないかもしれない。というのは扇動されている場合に本人は外の権力でなく、内在化された権力に従うために、自分の選択に疑問を抱かないかもしれないからである。
 なぜ1000万かけてまで性器を転換するのか。他人には見えない部分であるにも関わらず。本人の望むところなのか、社会の扇動なのか。社会が扇動なら二つの意味がある。@異性愛社会の規範を守らせるA規範を守る仮定で資金を貯めるために夜の世界で働かせる。夜で働かせることで自分たちとの距離を保つ。その二重の力にさらされてまで性転換、夜の仕事をするのはなぜだろうか。
[参考]中山元「フーコー入門」2章
posted by かじゅき at 16:09| 京都 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 制作実習<TG> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月26日

聖職者と社会


 「聖職者」というものに結論が出ないまま解散した昨日の夜。どうもにえきらない。今日「司祭」という映画を見た。イギリスのカトリックの牧師の話だった。彼は自分が同性愛者だと気づく。やはり「聖職者」という役割との間で罪悪感を感じる。彼は同性愛者であることがばれてしまう。しかしそれでも彼は司祭であることを続けた。多数の人はそれを認めない形で終わった。カトリックがこの映画が出回るのを非難したことからも、現実社会を切り取っていると感じた。
 そして昨日の続き。@聖職者は必要か。必要不可欠かはわからない。多くの人が必要としなくなれば必要ないのかもしれない。しかしそのようなことは近い未来にはありえないと感じる。世界中で宗教というものが力を持ち、日本でも仏教や教師という聖職者が存在する。相対的に教師というものの価値が下がったとしても、きっと新しい聖職者像を求めるに違いない。道徳・規範の指導だけでなく、存在として必要とする。
 しかし一方で聖職者にも欲望は存在する。A聖職者はどうふるまうべきなのか。欲望を感じない人、また規範・道徳内の欲望(夫婦間の生殖活動)以外を感じない人は問題ないかもしれない。しかしそれ以外の欲望(ポルノサイト、生殖以外の性行為、同性愛・・・)も持つものはどうすればいいのか。
(a)聖職者をやめるという選択。これは聖職者の地位は守れる。しかし性の多様さをなくすことになる、一段と聖職者の性が抑圧される。(b)性をオープンにした上で聖職者を続ける。これはある意味理想かもしれない。しかしそれで世間が受け入れるか。世間が認めるならありであろう。しかし現在の状況からして厳しいのではないか。(c)プライベートと分けるという選択。(b)に近い。これも結局世間次第である。いくら公私を分けたところで、聖職者に求められるのは「人格」であるので意味をなさない。(d)匿名的なかたちで発散する。つまり身分が知られない形での発散。これは地位も守り、欲望も解消できる。しかし根本的解決にはならない。
結局、社会が見方を変えれば良いとういう結論になってしまうのか。「聖職者」の見方は変わるのであろうか。不道徳な「聖職者」というものに人々は尊敬できるのか。同姓愛・性同一性障害などを考えるときにつねに思う。社会の見方が変われば良いというのは理想主義的すぎるのかもしれないと。。。。
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2004年06月25日

汝、Hサイトを見るなかれ

 ポルノサイトにはまって罪の意識に悩む牧師たちがいる。彼らを支援するサイトや合宿カウンセリングも増えている。聖職者という役割と欲望のはざまで罪悪感に悩む人たちについて述べる。
 役割期待とは、人を生きやすくする反面、人を生きにくくするということがある。前者は子供、学生、老人などがあてはまる。その役割を期待されることで、余計な期待を背負わず、気楽な生き方が可能となる。後者は牧師、教師などの聖職者が当てはまる。その役割を期待されることで、過剰な期待を背負う。聖職者が期待される役割とは、規律・道徳を教える立場であるがゆえに、世間以上の規律・道徳を守れというものである。この役割期待と、自己の欲望のギャップに罪悪感を感じる。
 聖職者はこの罪の意識に対してまずは欲望を消し去ろうとする。役割期待を受け入れることによって、その欲望を周りに言うことも出来ず、孤独な欲望との戦いを強いられる。しかしその欲望は消えず、罪悪感も残る。次に規範・道徳から見ると欲望が悪いということは、誰よりも感じながらその欲望を世間にばれない形で実行する。それは権力のもとでの虐待や、匿名であるインターネットかもしれない。実行は一瞬の快楽を伴う。規範・道徳を破る快楽であろうか。しかしその快楽は一瞬であり、欲望は解消せず、前以上の罪悪感だけが残る。
 欲望を抑圧・実行するだけでは罪悪感は消えることはない。禁欲的な道徳・規範を持てという役割期待が罪悪感を生む。この役割期待と距離を置く、つまり「自分は聖職者でなく普通の人間」と思うことが、欲望を持つことの罪悪感を軽減する。一度欲望を知ってしまうと、欲望を無視することはできなくなる。ニーチェは「人間は欲望によって苦悩を作り出す、しかしこの欲望以外には人間の生の理由はありえない」と言う。私たちは欲望と共に生きる以外の選択肢はありえないのである。
 これらの話は聖職者だけの話ではない。まじめという役割期待を負わされる子供の万引きや援交、エリートサラリーマンの痴漢。その他にも、世の中には役割期待と欲望のはざまでの苦悩が溢れているのではないだろうか。
 その後の議論を通して、@聖職者の必要性A聖職者の行動については次回ということで。
posted by かじゅき at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月24日

フィクションとノン・フィクションの境界

制作自習の絡みで書かせていただきます。当面は毎日書きたいという欲望があるもので・・・。
 基本的に完全なノン・フィクションは存在しない。カメラの位置、画格、時間など1つ決めるだけでそこにはフィクション的要素は確実に存在する。インタビューの仕方、編集などの仕方なども考えるともはや自然を映すだけのものとは到底いえない。確実に送り手の意図を反映する。よって私たちがどのようにして現実・社会を切り取ろうとしているかはフィクション、ノン・フィクション問わず必要である。またノン・フィクション=取材対象次第ではない。ある意味では良い取材対象と出会うことはラッキーである。しかし出会うことがなくても良い作品は作れる。それは送り手の社会を切り取る意思と、丹念に練った仮説、事前調査などである。
ノン・フィクションの中でいかにしてフィクション的要素を活かすか。私たちは送り手になる意思があるのであれば、やらせ、やらせでないの議論は意味を持たない。送り手の世界ではもはや、フィクション、ノン・フィクションの境界は便宜的なものでしかない。フィクションという手法は送り手になる以上は自覚して取り組まなければならない。
posted by かじゅき at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月23日

音の力

 今日制作実習の音入れをした。先生のヘルプがあったので4時間ほどで仕上がった。いなかったらやばかったっす。作品は、音入れる前でも結構良かったと思ってたのに、音を入れるとなお良い。何が違うのか。それは「恐怖」の度合いだった。音入れ後の作品はまじで気持ち悪かった。ってことで今日は音と恐怖について述べちゃいます。
前提:「オンの音」=映像とリンクした音、「フレーム外の音」=フレーム外から聞こえる音、「オフの音」=映像と関係ない音
まず音の力を最も感じたのが意外な事に「沈黙」である。表現が正しいかは分からないが「無音」とは違う。「無音」は、全ての音が消えている状態である。沈黙は「オフの音」がなく、「フレーム外の音」がかすかに聞こえると考える。この「フレーム外」の音は、特に恐怖を掻きたてるような音が入る訳ではない。音はごく一般的な生活の中で聞けるような音だった。キーボードを叩く音や、パソコンの機械音である。しかし人物の動きである「インの音」と「フレーム外の音」の不一致が受け手の不安をあおる。そして混乱を誘うようにたまに音を一致させる。受けてはますます意味が分からなくなる。更に音量の強弱をつける、たまに「無音」を入れる、時に激しく、時に穏やかに。さまざまな方法で音が映像と同等の、いやそれ以上の影響力を持った。
ほんまに良い作品に仕上がって良かった。超満足な仕上がりでちた。
posted by かじゅき at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月22日

鬼塚ちひろ『月光』

 土曜日の午後、びっくりするくらい暇やった。でも勉強する気が起こらんかったので、CDを借りに行った。適当にシングルを借りる中、なぜか鬼塚ちひろを取り上げてみた。んで借りてみた。んで何げなく歌詞を読んでみた。んで何げなくはまった。『月光』のはじめの4行で気にいった。今までカラオケのため意外に歌詞を読んだことがなかったので、「歌詞て面白いな」て初めて思った。
 他の歌詞も読んでいくうちに、はじめはありきたりな「恋愛中毒な人なんかな」と感じた。でも読めば読むほど違う気がしてくる。歌詞によくでてくる『貴方』という単語。本当のことは分からないけど、『彼氏』とは意味合いが異なるように感じた。『貴方』は、人物でない。そして何かを示すものでもない。「神のようで、神でないような存在」と感じた。極めて指し示すことのできないもの。
 しかしなぜそのような存在を求めるのか。彼女の歌詞のはじめの4行を見る。彼女の世界観が凝縮されている。腐敗しきった世界。どうやって生きればよいのかもわからない世界。このような世界観にも関わらず、死ぬこともできない自分。苦しくてもこの世界を生きなければならない自分。この世界に安心できる理由を求める自分。自分のようで自分でない自分。「死ぬ権利もなく、生きる義務だけが残る」。そんな悲観的な自分の心のよりどころになる『貴方』。この不合理な世界を合理的にしてくれるかもしれない『貴方』。その一方でその不合理な世界を作り出す『貴方』。矛盾だらけである。苦悩をつくり出すのも「貴方」、でもその『貴方』以外にこの世を生きる意味はないのであろうか。
 解釈は間違ってる可能性の方が高いけど、それでも何かひきつけられたので、今回歌詞について書いてみまちた。
posted by かじゅき at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月21日

俺もヴィクトリア朝時代の人間

 グループ研究でホスト・キャバなどの「性」に関わる研究をしようとした。私たちの主張は、私たちの世界と夜の世界の間に分厚い壁があるとした。つまり異世界を見る視線である。そしてその壁を取っ払い、お互いの世界がより良く生きられるとした。しかし結局ゴーサインはでなかった。それは、あまりにも私たちが典型的なヴィクトリア朝時代の人間であったからであろうか。
かつてヴィクトリア朝時代(1819−1901)というものがあった。この時代はイギリス帝国主義の時代であり、世界の商工業の覇権を握り、植民地は全世界に広がった。そして独特の文化も生み出した。
ジェントルマン・レディーの文化である。これらは力を失っていた「宗教」に代わって新しい社会規範の役割を果たした。人々はジェントルマン・レディーの社会規範に合わせて自己を厳格に規律した。例えば服装。男性はシルクハットにタキシード。女性はコルセットにドレス。互いに身体を厳格に規律した。しかしこの規範は強制的なものではなかった。強制や指導という前近代的な権力でなく、自主性や主体性という原理による権力である。つまり前近代の権力が上→下、外部の力であったのに対し、近代の権力は下→上、内部の力であった。
しかしこれは身体だけにとどまらず、精神を規律した。その代表が「性」である。ヴィクトリア朝以前は「性」に対して寛容だったといわれる。しかしヴィクトリア朝時代に入ると「性」は用心深く閉じ込められる。語ることは「夫婦」と「生殖」に限定された。それ以外を語ることは、追放され、否認され、沈黙を課せられることになる。もしくは特定の空間においては語ることを許容される。それは精神病院と娼家である。「性」は極めて慎重に、用心深く閉じ込められていったのである。
これらの「性」に関する動きに対して、「性」の禁止と資本主義を合致させることで、人々は「性」を抑圧されたものとする。つまり資本主義の労働と「性」が相成れない存在であるとし、厳格に「性」を抑圧したとする。しかしそれは本当だろうか?本当に抑圧であるのだろうか?
私たちは「性」が抑圧されていたとすることに情熱を注ぎ込む。抑圧されてたことが望ましいかのように。これは歴史的自明な出来事ではない。実際には「性」は抑圧されていなかった。そして今もそうである。私たち自身がさまざまな権力(精神医学、学校、家族・・・)によって扇動され、また自らの欲望によって、「性」が抑圧されているものとする。そしてその抑圧を解消しようとすることに快楽を覚える。権力に逆らい、真実を語り、快楽を得ようとする。このために自ら「性」を抑圧の方向に閉じ込める。これはヴィクトリア朝だけの話ではない。今みんなが、そして私自身もヴィクトリア朝時代の人間である。「性」に対して述べるときの欲望、「性」を解放しようとする欲望、権力に逆らう欲望、全てがそうである。
[参考]フーコー「知への意思」
posted by かじゅき at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月20日

無限の欲望

資本主義(高度消費社会)と金銭の話の続き。前回は@貨幣の価値について述べた。今回はA際限のない欲望について述べる。金銭と消費の関係は大衆に際限の欲望をもたらせる。ではなぜそのような状況になるのであろうか。
まず人間中心主義という批判もあるかもしれないが、動物の欲望はある程度有限である。それに対して人間の幸福、快楽、贅沢に対する欲望は際限がなくなっている。ある程度社会が安定し、道徳や規範というものが機能している時代においては欲望に圧力がかかる。この圧力のもとでは、個人は自身の生活における、自身の欲望の限界点をそれとなく感じ、それ以上の欲望をいだかない。その場合、欲望は有限的かもしれない。
しかし社会が混乱しだすと次第に道徳や規範というものが役割を果たさなくなる。このとき欲望はもはや圧力をかけられるものではなくなる。際限のない欲望はもはやとまることがない。このような行動を秩序づける共通価値・道徳が失われて無規範と混乱が支配的になることをアノミー状態という。
このようなアノミー状態は経済的な欲求によってもたらされやすい。まさに資本主義(高度消費社会)によってアノミー状態は促進されたといえるだろう。その中で人々は欲望がさらなる欲望をもたらす状況になる。前回述べたように、商品・サービス・教養などを通してより高いランクを目指す。そのランクに達したらまた上のランクへと際限のない欲望はもはや止まらない。例えば体重2キロ減らしたらまた2キロ。1万のものを買えば次は2万など。ランクを落とすことは敗北ぽく認知され人々は自分から上を目指すようになる。
このような状況は従来の意味でいえば規範・道徳は弱まっているといえる。しかしもっとさりげない形の規範・道徳として目標を持ち、上を目指せという規範が出来上がる。我々はそんなアノミー状態に陥りながら、今日もまたワンランク上の自分を目指しながら日々を生きている。
[参考]ディルケイム『自殺論』
posted by かじゅき at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月19日

impactという護身術

最近「インパクト」という新しい形の護身術が女性の間で人気を呼んでいる。従来の護身術と違うのは@実践を重視するA技を覚えることより身を守ることを重視するB言葉や態度というものに力を入れるCこれが最も異なる点である。それは全力で戦うことである。そしてこの「インパクト」は精神力というものにもっとも力を入れている。自分を大切に思う心と最後まで諦めない精神力である。そこでこの「インパクト」がなぜ今女性に人気を呼んでいるかを分析する。
 なぜ女性的護身術でなく、男性的格闘技(柔道・空手など)でもなく、今女性はインパクトを選ぶのであろうか。まずインパクトと従来の護身術の違いをみる。それは@攻撃以前に言葉や態度に力を入れるA全力ファイトの2点があげられる。インパクトは、一般的には男性的行為とされ、女性がすることに抵抗を感じる行為(大声を出す・全力で殴る)を積極的に取り入れている点で従来の護身術とは異なる。しかしそれだけでは格闘技と何ら変わりがないという疑問が残る。
 しかしインパクトと格闘技は大きく異なる。@女性的シュチュエーションという方法(力関係、絡まれる、襲われるなど不平等な状況)A自分の身を守るという理念の2点が異なる。ここがインパクトの魅力である精神力の話につながる。従来の精神力とは極めて男性のための考え方である。相手との関係は対等から始まり、相手をなぎ倒すことが精神力の強さとされる。しかしインパクトが提示する精神力とは女性のための考え方である。相手との関係は不平等・不利から始まり、自分を守ることが精神力の強さとされる。そこで女性が強さを持つことが正当化される。
 従来ならば大声を出す、全力で殴るなどの強さは男性の特権であった。もし女性が強さを備えれば、女らしくないとし、男らしさの分野に吸収すれば良かった。柔道の田村選手、テコンドーの岡本選手を見れば明らかである。つまり女らしさと強さは矛盾する要素であった。しかし女性的精神力の誕生により、強さを備えた女性を女らしくないということができなくなる。女らしく、そして強くても何の問題もない。むしろ女らしいからこそ、身の危険も増大し、強さを身につけるためにインパクトを習うことに正当性が出る。女らしさと強さの共存が可能となる。女性としてのアイデンティティーを保ちつつ、強くなれるという女性的精神力というものに魅力を感じてインパクトを選ぶのではないだろうか。
 このような女性的精神力の登場は男性社会をおびやかす。なぜなら男性のまなざしによって作られた女らしさの中で女性が強くなるからである。インパクトは男性のまなざしに抵抗する手段を提示しているのではないでしょうか。
 裏ゼミ後。一言でいうと、先生に潰されました(泣)。でも後で分析すると「男根主義」という批判はもっともであった。男が5人中4人私の論に票を入れたのに対し、女は5人中2人しか入れなかった。80%対40%の支持率。極めて男性的であった。これを読んだ男性諸君。要注意を、、、
posted by かじゅき at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月18日

資本主義と消費

 前回の「アメリカ社会」で述べた資本主義社会(大量消費社会)が金銭に価値をおくということについてもう少し話をしよう。金銭に価値をおくことは@金銭を持つことが価値となるA際限のない欲望のシステムを作ると述べた。ここでは@金銭を持つことが価値となるについて話そう。
 まず誤解を解かなければならない。金銭を持つということは誰にもきずかれることなくこっそり金銭を持つこととは違う。このタイプの人間はある意味資本主義社会を降りている。金銭を自慢する訳でもなく、消費に使う訳でもない。つまり際限のない欲望を持っていないタイプといえる。かといって持っている金銭をただ自慢することも少し違う。このタイプは金銭を貯めるという際限のない欲望は持つが、他者と差異化ははかれない。そのことに耐え切れるというのもまた資本主義的とは少し違う。ここでいう資本主義的人間はさまざまな消費を通して、社会的差異(社会による差異の価値)を利用し、アイデンティティー(自分らしさ)を形成する。
 このことは例を挙げればきりがないがいくつかをあげる。まずは@ブランド、家、車などの商品を通して社会的差異を得る。A留学、ボランティアなどの経験を通して社会的差異を得る。Bジム・エステなどの身体改造を通してC学校、資格、英会話などの教養を通してD親や子に金銭を使うという他者投資を通して社会的差異を得る。
 これらのごくごくありふれた消費というものを通して社会的差異を得て、アイデンティティーを確立ということは説明できた。しかしこれまでの説明だと「適度な金銭があれば良いのでは?」という質問に言葉を失う。
 ここで社会的差異と金銭を結びつけるものが@商品の秩序付けである。これは誰かが意図的に順位をつけたりする類のものではない。しかしながら多くの大衆がそれを認知する。エルメス>ユニクロ、ベンツ>オデッセイ、美容院>散髪屋などなど。誰が決めたわけではないが、何となくみんなが知っている。そしてその上位に来るものを得るためには高い金銭を必要とする。そしてAの希少性。これは@を保護する役割である。いくらベンツがオデッセイより高かろうが、エルメスがユニクロより高かろうが、市場に出回りすぎては社会的差異を保てない。希少性を保つことで社会的差異を保ち、かつ金銭の高さを保つ。
 われわれは資本主義社会が用意する@商品の秩序付けA希少性などをどんどん内面化する。常に情報を受けながら、発信する。そして社会全体によって作られたシステムの最上位を手に入れることは資本主義社会を生きるものなら誰しもうらやましく思う。これは最高の社会的差異である。その社会的差異を手に入れるためには金銭が必要となる。そこで人々は自らその金銭に価値を与える社会を生きていくことになる。
 次回は今回述べなかったA際限のない欲望が引き起こる社会状況について述べたいと思う。
[参考]マートン『社会理論と社会構造』、石井淳蔵『ブランドー   価値の創造』
posted by かじゅき at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月16日

アメリカ社会の構造

初論文。初めやから固めなことからいきたいと思います。
 日本はどうやら多国籍軍に参加するようだ。もうアメリカ以外見えていない感じの近年。ここで『アメリカってほんまおかしいよな?』って言うのはだれでもできる。じゃなぜアメリカはおかしいのか?ブッシュがおかしいのか?それならアメリカ国民の態度が説明できない。では国民性なのか?人種が多いアメリカでは生得的なものになすりつけることはできない。ここで一つ浮かびあがるのはアメリカ国民というものを作り上げる社会というもの。そこに注目することができる。
 何をするときでも目的と手段というものがある。その目的と手段がバランスよく拮抗しているときある程度社会は安定するといえる。しかしそのバランスが崩れると社会は不安定になる。まず目的>手段になったとき。目的ばかりが注目されることになり、手段は問われなくなる。その逆に手段>目的になったとき。目的は忘れ去られ、手段に同調することだけが目的になる。これらはスポーツにも応用できる。目的>手段は勝負に徹底的にこだわる。いわば結果が全てである。逆に手段>目的は勝負を度外視し自分たちのやりたいプレーに貫徹する。両者は極論ではあるのであるがスポーツとして成立しないことがわかる。手段と目的が拮抗して初めて安定したゲームが存在する。
 話をアメリカに戻そう。アメリカはどのタイプであろうか。無論目的>手段の国である。国内を見て手っ取り早くいうとアメリカの、いや資本主義国の目標は金銭である。程度の差はあれ事実である。金銭というのは実によくできたものである。一つにそれを持つこと自体が価値となり神聖化される。二つに終点がない。際限なく上を目指すシステムになる。社会において程度は異なれど、アメリカはこの金銭的成功を何にもましての最高価値にしているといえる。
 そういう社会は国民に、「機械の平等」をうたい、常に「金銭的成功」を目指すことを命じ、目的を下げることに対して「失敗の烙印」を押す。そしてそれはもはや国民の間にしっかり内面化される。「自分たちは平等で、成功することを目指し続けなければならない」と。「金銭的成功」という目標が前面に押し出される、その一方で手段は無視される。どんな手段を利用しても良いのである。結果的に勝利という目標を達成しさえすれば・・。成功すれば手段も成功である、逆に失敗すれば手段は失敗である。
 イラク問題に戻ろう。みなさんはどう考えますか?私にはアメリカは目標>手段の究極系に見える。途中経過が何であれアメリカが世界の頂点でいられる間、手段は全て正しいのである。ベトナム、湾岸、アフガニスタン、イラクそしてそれ以外の小さな戦争もそうである。目的と手段のバランスが拮抗しない国アメリカに日本はすりよっている。アメリカとの適度な距離をとることは可能なのだろうか。
[参考]マートン『社会理論と社会構造』
posted by かじゅき at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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