2004年07月29日

ポストモダンとオタクの関係

 明日(29日)からついに制作実習の合宿っす。いったいどうなることやら先行きが不安です。ってかまだ体痛いのに直射日光にさらされるのが超不安。すでに皮もめくれてるし、奥野さんにはでこ光ってるとかゆわれるし、ぐろには油ぎってる芸人みたいてゆわれるし散々です。

 一応『動物化するポストモダン』を軽くまとめると@ポストモダン社会においてはもはやオリジナルとコピーの区別に意味がなくなるみたいです。もはやアウラというものが意味をなさなくなる。アニメにおいても原作というものにもはや特別性というものがゆらいでいるらしい。
 コスプレにあてはめると、もはや現実にあるオリジナルというものにこだわりがなくなるのかもしれない。だからこそキャラのアレンジもいればコピーもいたりするのではないかなぁ。

 Aポストモダン社会において大きな物語が消失し、自明の世界観というものがなくなる。モダン社会においては大きな物語は共有され、多くの人が共有できる物語が存在したっぽい。成長、進歩とかいうことばが共有されていた。もはや共同体は分裂し、多くの共同体が並存する。一般社会という核はもちろんあるんやけど、絶対性がなくなって相対的なものとなる。
 コスプレとはその派生した1つの共同体やと思う。大きな物語を欠く。それを自分たちのサブカルチャーで補完している。自分たちの共同体独自の価値を消費する。ポストモダン社会においてコスプレ社会は驚くべき現象ではないんやと思う。
posted by かじゅき at 00:41| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月28日

『風の歌を聴け』

 今日(27日)は前期テストのお疲れ会でした。ということでゼミのメンバーで飲みに行きました。んで梅田出るついでに紀伊国屋をぐろと一緒にまわりました。一万円をくずしたかったので何か本を買おうとしたんやけど何欲しいかわからん状態。ふいにbeaune君のホームページを思い出す。そして意思決定!俺も小説読もう。
 そうと決まれば小説読んでるぐろにお薦めの本を選ばせる。村上春樹「風の歌を聞け」と松浦理恵子「ナチュラルウーマン」を買う。んでついでにゼミのピーターパンが「創価学会」の新書の話してたし買ってみた。

本を買って集合場所に行ってみるとどうやら見たことあるメンバーばっかり。結局ほぼ裏ゼミメンバーという感じでした。ピーターパンのお薦めの店でわいわい飲みました。結構いい感じに酔いましたよ。のほほーんとした空気で盛り上がる。でもでも酒の席でも戦うのが山口ゼミっぽい。しょーもない話から急遽戦争状態へ突入。こうなればもはや男性の戦いに。大河ドラマ「新撰組」の読み方で議論がもめる。まあ面白いしいーんやけどねー。
俺のブログの書き方でも論争が起こる。基本的にはブログは文章力を鍛えるためにやるってはじめたもの。そんでそれをさぼらないために公表して周りに見張ってもらう意図があった。でも書き続けるうちにコメントや返答を求めてる部分を指摘される。「それなら文章・内容をもっとやわらかくしたらいいのにー」と言われた。よくよく考えるとやっぱそうやなあって思う。まあできるだけ内容はこのスタイルで文章とかをもっとやわらかくしたいと思います。店出るときにちっと話してたけど、巽くんにはお手本文を書いて欲しいでする。

んで家帰って小説デビュー戦。とりあえず村上春樹を読む。軽くすっとばして読んだだけやし、いまいちわからないんやけど、この本ってどんな感じなん?最初から最後までストーリーになってるんやけど、作者が一冊を通して言いたいことってやっぱあるん?1章ごとに1つづつ何かネタがしこんであって、要所要所おもろい考え方やなって思う。「ピンボールにおいての、賃金と死んだ時間の交換」、「ポンコツ車においての、何処かの修理は別の箇所が目立つ」とかが気になったかなあ。でもやっぱりまだ全体を貫通する主張があるかはわからなあーい。また誰か教えてなー。
posted by かじゅき at 03:21| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月27日

「じこまん」の謎

 「なぜコスプレをするのか?」と率直にぶつける質問。しかし答えはだいたい「じこまん(自己満足)やから」と答えられる。そのほかの微妙な質問にも「じこまん」という返答がくる。この「じこまん」とは何か??もちろん自己満足そのものではない。その裏にある意図をさぐりたい。
 「じこまん」の意図を探るために「じこまん」と似た現象をさぐる。それが援助交際における「おかね」という言葉である。多くの人が「なぜ援助交際をするのか?」とたずねると「おかね」と答える。

 この2つのことばの特徴は、他者を納得させることである。「じこまん」「おかね」と答えることで他者は一応納得し、それ以上の追及をやめることが多い。なぜならその返答はいわゆる一般人が望む返答なのである。「じこまん」や「おかね」であって欲しく、予想できない返答ではいけないのである。自分たちの理解しがたい現象を、自分たちの最も理解しやすいことばで表現し、自分たちの望むように返答してくれるのである。
 では一見おかしい奴と見なされるコスプレイヤーや援交少女は世間と交わらない地平にいるのか?いやそうではない。これだけ画一的な返答をするのは一般人の視線をしっかり内在化している証拠ではないか。一般人が自分たちに対する視線に対して一応納得させるための返答である。世間と離れているというイメージとは異なり、実はしっかり世間のイメージも把握しているのである。

 このとき一般人に納得させる返答を与えず、自分たちは自分たちだという考えを持つのは少し閉鎖的である。山口のいう悪いおたくかもしれない。一般人に納得させ、社会と一応通じようとするのは閉鎖的ではない。良いおたくかもしれない。
 しかしまだ解けてない問題はなぜ「じこまん」「おかね」といわざるを得ないのか。一般人の視線を内在化している以上、一般的には受け入れられにくいものであるだろう。「じこまん」ということばの裏にあるものは一般性があるか個人的なものなのか。単純なものか複雑なものなのか。もっとフィールドワークしないといけない。
posted by かじゅき at 00:12| 京都 ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月26日

パソコン復活

 あーやっとパソコンが返ってきた。ということでまたぼちぼち論文書いていきたいと思います。

 今日は海に行ってきてがっつり体を焼いてきました。ってか予想外に焼きすぎました。非常に体が痛い。まじやばい。明日から会う人全員につっこまれる勢いで今体が赤くて黒いわー。早く色が落ち着くことを望みます。

 明日はテスト最終日なんで頑張りたいと思いまする。
posted by かじゅき at 20:22| 京都 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月16日

行列のできる法律相談所

 一応マスコミ専攻なんで視聴率というものにはある程度関心を持ってます。不思議に視聴率を取ってる番組がある。それは『行列のできる法律相談所』である。特に『トリビア』ほど流行を巻き起こしたわけではない。同じような番組『THE・ジャッジ』はだめだったみたいなのに。不思議だにー。2つの番組は共通点が多い@司会者がビッグネームA6〜8人のレギュラーがいるB弁護士が出るC日常の出来事を扱う。

 『行列の出来る・・』、『THE・ジャッジ』、『ワイドショー』など最近非常にB弁護士が出るC日常のトラブルを扱う番組が人気を持った。従来のクイズ系番組と異なる点が3つある。
 (A)従来のクイズは固まった言説を利用することが多かった。つまり現在の出来事の問題でなく、過去の出来事・歴史などを問題にする。そして固まった言説を利用することで、解答が1つしかなかった。しかしこれらの番組は、今の出来事を扱う。固まった言説を利用しないことで画一的に答えがないということが大事になる。(B)従来は本人が存在しない問題が多かった。しかしこれらの番組は直接的に本人が存在しそうな問題ばかり扱う。これは政治の話にもつながるのではないか。

ではなぜ『行列のできる・・』だけが今なお人気を保つのか。(A)答えを持つ権力側(弁護士)を4人にした。このことで画一的解答になることを防ぐ。それにより権力が提示する回答が絶対的なものから相対的なものになった。(B)権力側と司会者との対決。権力側が法などを利用して語るのに対し、司会者側は日常の感覚を持ち出し語る。いくら権力が正当に語っても、司会者側が力を持つ。この場では司会者がもっとも権力者である。
 視聴者はこのように権力者との権力関係を逆転したいという欲望がある。現実で権力を持つという欲望を断念している大衆。その大衆がクイズ番組という枠の中で権力を逆転させる快感が受けて『行列のできる・・』は人気を持つのではないか。
posted by かじゅき at 22:44| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月15日

女子アナ

 7月13日の午後7時から女子アナの知能を争う番組があった。局はもちろんフジで。番組の趣旨は爆笑問題が司会で女子アナにクイズに答えさせて、ばかにする。女子アナはいかにぼけるかという芸人並みの要求がされる。見てて半分可愛そうな気持ちと、半分中野さん可愛いって気持ちが交錯(笑)
 女子アナっていかに可愛くあほになれるかを要求される。ちょっと前に、大橋まきっていう人気あったけど結婚して退社した女子アナがいる。最近偶然彼女のインタビューを見た。内容は「結婚で退社したのは表向きの理由。ほんとはちゃんと仕事がしたくてテレビ局に入社したのに、回ってくる仕事はアホキャラを求められる仕事ばかり。そのつらさに耐えられなかった」と言う。
 
 このように役割を求められることは苦痛を伴うこともしばしばある。そしてそれは職業だけでなくさまざまな場面で要求される。例えば、親、子、男、女など。主体を確立した人々はその役割を演じようとする。しかしその規範・道徳・合理性との不一致が精神病を招く。つまり体がそのような外的要因を拒絶する。

 プラトンをはじめとする哲学者の中では身体が牢獄であり、その牢獄から魂を解放するというテーゼがあった。つまり単純化すると身体=悪、魂=善という図式。身体が無限なる魂を束縛する。しかし現在の現状を見るとこのテーゼは間違いである。
この魂ということばは主体に置き換えても良いかもしれない。主体が確立されてしまった現在では主体が牢獄であり、その牢獄から身体を解放することが重要となる。確立された主体によって身体は空間・時間ともに規律化される。
 そうやって規律を求める主体に対しさまざまな形で身体が限界を見せている。異性愛主義に対して性同一性障害、家族の神聖化に対してDV、さらにはうつ、AC、多重人格などさまざまな形で身体が氾濫をおこす。
 解決方はまだ見つかっていない。少なくとも精神医学は根本的解決にはならない。かといって昔に戻れるわけでもない。この主体というもの確立した社会を生きる方法を模索しなければならない。その方法の1つとしてコスプレ的生き方を夏休みの課題にしたい。
posted by かじゅき at 16:52| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月14日

報道ステーション

 あー学校ないから一日外出てねーや。好物のケンタッキーを買いに行っただけ。なかなかのひきこもりっぷりやわー。夏ゼミの『想像の共同体』をちっと読んでみた。なかなか難しいねえ。レジュメ担当のぐろ君頑張ってなぁ。あっ!後制作実習の金出しに行かなあかんわ。制作とってる人は忘れないよーに♪

 んで昨日の続き。国民と政治の距離を縮める役割、国民の居場所を確保する番組として「報道ステーション」を提案した。裏ゼミの奥本論+先生からちょうだいしたネタまじえ書きます。

『報道ステーション』司会の古館はまぎれもなく感情型キャスターである。普段流れる日常のニュース・スポーツニュースなどでは、軽いのりで面白いおっさんのように語る。逆に政治ニュース・悪いニュースなどでは、軽いのりを自粛し知識人のように語る。いずれにしろ古館は自分の感情と世論の流れを照らし合わせながら、いろんな古館になり感情を表出し、コメントをする
 しかし感情型キャスターにも落とし穴はある。それは「悲しみ」という感情の表出の難しさである。純粋に「悲しみ」だけを語ることは難しい。殺人事件ならば、加害者への怒りと関連させることで「悲しみ」を語る。有名人の死であれば、過去の栄光や物語と関連させることで「悲しみ」を語る。しかし加害者への怒りもなく、有名人でもないとき感情型キャスターは窮地に立つことになる。つまり「悲しみ」を語れない。
 例えば6月1日の長崎女子児童殺人事件。ニュース映像が流れたあと古館のアップになる。古館は3秒ほど小さく低い声でただうなる。そう古館には純粋に「悲しみ」を表現する言葉がなかった。だからうなることで「悲しみ」を表現しようとした。もしこれが普通のキャスターであればたんたんとあたりさわりのない意見を述べてやり過ごすことができる。しかし感情型キャスターはそうはいかない。感情型キャスターは、それを売りにすることで視聴者に感情型と認識される。そしてそうあることを望まれる。だから感情型キャスターは感情的意見を述べることを暗に強制される。あたりさわりないコメントが許されなくなるのである。
 
 逆に感情型キャスターの売りは「怒り」である。なかなかキャスターにはマッチしない感情。ニュースステーションの久米は近いものがあるが、皮肉のスタイルである。所詮は知識人側からの意見にすぎない。国民と久米の間にはまだ距離があるのである。
逆に古館はよく怒る(怒っているポーズかも)。これは国民をひきつける。代弁してもらっている感覚が生まれる。政治の場に国民の姿が見えやすくなる。古館の怒りは計算されている。ただ古館をやかましいって言って非難する人はそれを読んでないと思う。

結局、感情型キャスターが不必要という訳ではない。むしろ必要である。それは1つには大衆を政治の世界に興味を持たせる役割を果たす。かたいイメージを少しでも軽減することで政治への関心を増やす。2つに世論の反映の役割を果たす。感情型といっても世論を無視できない。むしろある程度世論の動向を見ながらコメントしているといえる。それによって大衆は政治への影響力を身近に感じられる。NHK型ニュースが視聴率をとる中で感情型キャスター古館は、感情型であることの落とし穴を理解した上でなお感情型キャスターであって欲しいものである。
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2004年07月13日

選挙について

 日曜日選挙があった。民主50議席、自民49議席という結果。俺には自民が勝ちか民主が勝ちか詳しいことはわからない。小泉、安部の責任論についてもわからない。あえてそうゆうことは政治評論家に任せることにしよう。目についたのは@民主党の躍進A投票率のことである。

 衆議院も参議院も結果的に民主党が躍進した。しかしその躍進は自民が大幅減した訳ではなく、他の野党が現象したぶんの大幅増加である。二大政党制というはっきりした流れ。
 ここで感じるのは話がわかりやすすぎる。今回だけでなく最近はわかりやすい話が多すぎる。自民か民主か、郵政・高速民営化か否か、年金未納か否か、北朝鮮問題、イラク問題など。本来ならわかりやすくなるはずのない話がワンフレーズで語られる。そして二者択一の選択がせまられる。選択肢が多いとわかりにくいからである。
 小泉流のわかりやすさ主義が支持を得たことがこの流れを促進する。議員だけでなく、メディアも分かりやすいものばかりを扱うようになる。不景気による閉塞感が大きく影響を及ぼしている。

 しかし問題は投票率が上がらないことである。なぜ現在が悲観的かというと議員・メディアがこれだけわかりやすい主義作戦を展開しているにも関わらず投票率は上がらない。これは制度の問題ではないと思う。投票制度・日程などの制度を充実させても状況は根本的には改善しない。投票に行かない人の多くが議員・メディアの流す情報に違和感を感じているのではないか。
 その違和感とは現実と情報の分離である。現実は政治・経済の問題は簡単にできるものではないことを国民も感じている。にも関わらず議員・メディアは現実と分離したところで簡単にして情報を流す。国民はそのズレを無意識的に感じ取っているのではないか。そのズレに無頓着なのはむしろ送り手の側ではないか。

 これからはどうすれば良いのか。議員はもちろんしっかり国民に働きかけるべきである。しかし議員と国民の距離はやはり遠い。頑張るべきはメディアである。現在は情報の扱い方が極端に二分化する
 1つはさきほど述べたわかりやすい主義である。しかしこれは現実と分離し、国民に違和感を抱かせる。見せかけのわかりやすさは通用しない。国民と議員の距離を感じる。極めてバラエティー的である。
 2つは逆にわかりにくい主義である。難しい現実を難しいまま提示する。わかる人だけわかれば良いスタイル。国民全体がこの情報を理解できるなら改善の必要はないかもしれないがそれは難しい。情報を理解できない国民には居場所が感じられない。朝生スタイルだろうか。
 目指すべきは現在投票に行かない国民の違和感を取り除くことである。難しい話をできるだけ現実と分離しないようにして情報を提示する。国民と議員の距離を縮め、国民のとしての居場所を提示し、そしてもっと政治・経済への興味を持たせることである。その可能性を見せる報道ステーション・テレビタックルなどの番組があるのではないだろうか。次回は報道ステーションについて。
posted by かじゅき at 02:00| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月12日

コスプレ喫茶(@完全オタク系)

 土曜日前半に行った日本橋のコスプレ喫茶の話。予想外に店が超せまい。半分以上がただのオタクの店。隅にカウンターに席が6個しかなかった。んでコスプレ女性はメイド服の一人だけ。あと店長らしき人物もいた。三人で入ったもののあまりの期待外れに一回店を出て作戦を考え直す。そして再び突入する決心をした。「とにかく仲良くなるしかね〜」という決意。気合入れましたよ。
 しかしながら前半は沈黙が多い。何せいきなり突っ込んだ質問が出来るはずもなく様子を伺う。ジャブを放ちつつ様子を伺う。前半のこうへいの頑張りには感謝です。思い空気ながらも話をつなぐ。そして店長が席をはずしたあたりから結構たたみかけた。

Q1:このバイト・コスプレをするきっかけは?
A1:もともと興味があった。友達の誘いに乗ってはじめた。
考察:一人では踏み込みにくい空間ではある。

Q2:バイト・コスプレなぜ続ける?
A2:友達増える。
考察:自分の趣味・価値観を認められる空間として必要。逆に言えば一般的な価値観には適合しないという認識を持つ。

Q3:他に仕事はする?
A3:基本的に本職持つ人が多い。副職としてのコスプレ。副職で衣装売る人もいる。
考察:あくまで副職の方が良いのかもしれない。表の自分と裏の自分の使い分けをする。裏の自分を意識するためにあえてしっかりと表の自分を持つ可能性。

Q4:プライベートの服装は?
A4:超普通。
考察:Q3と似ているかもしれない。あくまで日常は埋没した個である。普通でいておく。そして非日常で作った自分を提示する。日常を意識するがゆえの非日常である。

Q5:コスプレでは本名を出す?
A5:出さない人が多い。コスネームという源氏名のようなものを使う。
考察:これはある意味ヒットかもしれない。というのは一般的なオタクのイメージはキャラになりきっている気持ちの悪い存在。しかしオタクがなりきるのはキャラだけではない。まずコスネームを持つ、作った自分になりきる。そしてそれに重ねてキャラクターになりきる。二重のコスプレである。ここで重要なのは一般人には後者しか見えていない。しかしオタクには前者が大事であるという点である。Q6はこの論を補強する。

Q6:どうコスプレする?忠実派?アレンジ派?
A6:これはさまざま。
考察:つまり忠実になるのもアレンジするのも個人差である。一般人の認識は前者が強いのではないか。しかしオタクにはどちらを重要視するかはない。まずコスネームという自分になることが第一であるのではないか。
 
Q7:性出す人コスプレについてどう思う?
A7:私はあまり好きじゃない。だから男性コスプレも結構する。もともとエロい感じのキャラならちっさい会場で着る。
考察:今日インタビューした女性は@の完全オタク系に入ると思う。コスプレを忠実に再現するにせよアレンジするにせよ必要以上の性を出すことを嫌がる。コスネームの自分になりきり、その上でさまざまなキャラを再現したり、アレンジしたりする。
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2004年07月11日

焼肉コスプレ(BAV系の派生ー自己呈示系)

 今日グループ研究で、こうへいと野田ちゃんと日本橋、梅田をめぐった。ひさしぶりに結構歩いたわー。何かおたくがいっぱいいすぎました。三人とも途中でダウンしかけみたいな感じでした。んで後半の焼肉コスプレについて書きます。

Q1:なぜこのバイトをしているのか?
A1:金が良くて、お触りなし、プライベートの付き合いがないのが最も重要。
考察:プライベートがなかったらキャバでも風俗でもよさそう。

Q2:コスプレは楽しい?
A2:やっぱり楽しい。普段したいとは思わない。アニメ系は嫌。
考察:バイトという免罪符があるからコスプレ楽しめる。

Q3:なぜこのバイト?
A3:他のバイトは続かない。
考察:Q5の考察

Q4:このバイトをしててむかつく人(ライバル)
A4:可愛くない。露出多すぎ。男性にこびる。オタク系コスプレ。
考察:一般的な価値観が結構充満している。性(+自意識)を売り物にすることは仲間ら嫌われる。男性にこびること、可愛くないのに背伸びすることも嫌われる。そしてオタクを拒絶。意外なほど一般的価値観である。性について許容範囲が広い程度である。何だかんだで共同体の価値観を大切にしている。

Q5:キャバとコスプレ焼肉の違いは?
A5:プライベートの必要性。
考察:プライベートというのがとにかく重要となるらしい。これは何の差なのか。それは性と自意識の関係である。
 B−B自己呈示系コスプレ焼肉は性と自意識が分離することが可能となる。わかりやすい例でいうと、援助交際、浮気する女性、風俗で働く女性。一般規範は性と自意識が一致することを望む。だからこそ援助交際などをする人に対し、尊厳が傷つく、自分の体を大事にしろ、性を売り物にするのは異常、自分を売るな、という批判をする。しかし性と自意識が分離している彼女らにとってその批判は意味を持たない。性は売っても自分は売らないからである。あくまでこの場では一致する必要がない。性だけ売ることが可能となる空間。だから彼氏いることや自分の恋愛感、性癖など直球で話す。限定された時間・空間だけコスプレする性を売れば良い。その他は自由である。男性のまなざしに最低限従うだけでよい。男性も女性も性だけを金銭と交換している暗黙の了解である。
 B−A自己隠蔽系逆にキャバは性と自意識が分離することが許されない。キャバという空間はお客に性と自意識が一致することが望まれる。コンパニオンでコスプレする人にも当てはまるかも。よって本人は一致している自分を提示する。貞操守る女性、彼氏がいない女性、男性好みの人格、などである。常に男性のまなざしを意識することが望まれる。非限定的な空間・時間で性と自意識の両方を売らなければならない。この非限定性が重荷となるのではないだろうか。プライベートと性と自意識の関係が大きく異なるのである。

 今まではコスプレ全般に地の自分を隠蔽し、作った自分を提示しているイメージがあった。しかしコスプレ焼肉型はむしろ逆かもしれない。コスプレというものを免罪符として利用し、逆に地の自分を提示することができる。女性は最低限の性を売るが自意識は売らない。男性も性は買うが自意識を買うことはできないと理解させられる。コスプレ飲食店で着るコスプレというものは性だけを売る記号になっているのではないか。そして従業員はその記号を積極的に利用し自己を解放するのではないか。ある意味BのAV系の派生にあたる
posted by かじゅき at 00:49| 京都 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月10日

有料トイレとの出会い

 この前車で市内を走ってたら、急にお腹がちょ〜痛い。「トイレに行かなければ」という焦りで必死に車を走らせる。数分走って見事にトイレ発見。救われました。って思ったのもつかの間。な・な・なんとトイレ有料。100円もかかるんですよ。びっくりしすぎて漏らしそうになったよ。
 んで後日調べてみたらどうやら、公衆便所が汚いっていう苦情が多かったらしい。観光都市としては聞き流せなかったのか、見事にきれいなトイレを作ったらしい。実験としてとりあえず市内に2つあるみたい。
 そもそもトイレってなかなかすごい。トイレって紙は当たり前、洗浄液、便座シート、ウォシュレットとかかなり充実。この衛生ブームって一体何なんだろうか?

 そもそも衛生思考になったのはいつごろだろうか。やはり西欧の知が日本に輸入され始め、国民化がはかられる明治あたりではないか?西欧化が進み、日本の国民化が進む上で健康というものに手をつけざるをえなかった。
それは1つには純粋に国民というものを強く育てるという理由。じょじょに総力戦体制になるということもあり、強い日本国民を作る必要があった。2つに西欧への日本提示。疫病などが流行する国は非先進国というまなざしがあり、先進国派を目指すために衛生面が整っていることを示す必要があった。

 そして知らず知らずの間に清潔=善、不潔=悪という見方が定着した。現在では誰も疑うことのないものになった。そしてより清潔に、より健康にという方向へ自ら向かう。自分のために、そして外に提示するために。いまだに世界に清潔な国、日本を提示する。きれいなトイレを望んだのはおそらく外国人ではなく、国内の人間なのではないだろうか。

たぶん考えすぎかも・・・
posted by かじゅき at 01:29| 京都 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月09日

ガンジーの非暴力の精神

 ガンジーの非暴力の話はみんな知っていると思う。どんな暴力にも屈しない。非暴力・非服従の精神である。ガンジーのこのような精神について述べる。

 <モラル>を身につけるとはどういうことか。<モラル>を身につける=ただ一般規範としての道徳的行動をとることではない。つまり、ただ暴力をしない、窃盗をしない、レイプをしないということではない。もちろんそれらの行動は<モラル>を身につける前提条件ではあるが、それだけでは不十分である。
 <モラル>を身につけるのに必要な条件は、行動に対する姿勢である。たとえ道徳的行動をとっても、姿勢が計算的・取引的であっては<モラル>を身につけたことにならない。それは他者を疑い、自己本位になり、常に不安だけが残るからである。大事なことは、相手を対等とみなし、時には不利益をもたらすかもしれない相手を受け入れる勇気を持ち、行動することである。つまり他者を信じ、自己本位にならないこと。ガンディのいう非暴力の精神は、<モラル>を身につけるという意味で偉大なものである。
 ガンディは<モラル>を共有できないときの問題解決策として国際的な調停にゆだねることも提示する。しかしあくまで<モラル>の共有を目指す。人類が<モラル>を共有することで、不安はなくなり、どんな危険にさらされることもなくなるからである。<モラル>とは、それだけで良い人間社会を成立させるものである。
 しかし現在の世界で<モラル>は共有されているだろうか。法が社会を支配するようになり、表面的な道徳的行動をとることは増えたかもしれない。しかし、現状はどの国も他国に不安をおぼえ、武力も持ち、時には行使し、さらに国連も機能していない状態である。暴力を振るわれた方も必死に抵抗をする。これでは暴力・非服従である。結局ガンディが提示する<モラル>は共有されず、問題解決法である国際的調停機関も機能していない。国連が機能しない現在、もはや非暴力の精神の声は届かない。道徳的行為は共有しても、遠のく<モラル>の共有。法が支配し、道徳的行為が先行する社会において、このズレを修正するべき方法は存在するのであろうか。
 かといって非暴力・非服従が達成されるのは非常に難しい話であることも確かである点は重要である。


 
posted by かじゅき at 23:09| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月08日

制作実習打ち上げ

 あーやっと前期の制作実習終わった。ってか全然安心はできてないんやけど。。何かPJ、TJはどうやら前期はちゃんと終わったらしい。でもVJは7班もあるのにどこも企画通ってないし↓↓
 「打ち上げ盛り上がれないわぁーん」と思ってたらちゃっかり酔っ払って楽しんでました。何か先生いじり倒してたし。
 んでちゃかりVJのホームページの写真にちゃっかり二枚も写真載ってたし。目立ちまくりです。(たいして目立ってないんですが・・得意の自己満です)

 んで二次会。怖いと評判の濱野さんとなぜか語り合う。途中からうっかりマンツーマンくらいの勢いやったー。やっぱ業界いってる人て半端じゃないなぁってまじ思った感じでした。何か男前。ウイスキーがぶ飲み。みたいな。

 今日は日記で終わりです。力が残ってなかったのでー
posted by かじゅき at 23:01| 京都 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 制作実習<TG> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月07日

コスプレの中のアメリカ

 グループ研究について面白い本を発見。まぁぐろが見つけてくれたんやけど・・。『動物化するポストモダン』って本。AERAの社会学お勧め本50にも入ってたし、なかなか良質やと思われる。
 まず一般社会とオタク社会ではオタクに対する考え方が大きく異なる。一般社会から見ると、コミュニケーションが苦手で、閉鎖的で価値がないという言説が力を持つ。逆にオタク社会から見ると、進化した知覚を持ち、高度消費社会に順応した存在であり、オタクだけがオタクを語る価値を持つという言説が力を持つ。
 オタクには大きく三種類いるとする。起源は60年代とし、@『ガンダム』、『ヤマト』を直接見た世代。A@が作った先行文化を消費した世代。B80年代の『エヴァ』を見た世代。我々の対象は主にBとする。
 オタク文化はしばしば伝統との結びつきを強調される。歌舞伎や人形浄瑠璃で用いられる「世界」や「趣向」などの概念がしばしば利用される。更に日本を題材にし、日本的に表現し、日本的に消費することから日本独自の文化と言われる。
 しかし本当にそうだろうか。現在日本でオタク文化の主流にあるアニメ・ゲーム・SF・特撮それらを支える雑誌文化にしよ、全てはアメリカからの輸入であるという意見がある。つまりオタク文化の歴史とは、アメリカから輸入された文化をいかに「国産化」するかの歴史である。確かに日本文化を継承しているかもしれないが、その歴史には断絶があり、あいだにアメリカがはさまっているといえる。
 例えばこうへいがゆってたアニメキャラの違い。アメリカのディズニーには表情があり、リアルであるのに対し、日本のキャラには表情がない。それはアメリカが細かくコマをつなぎ、リアルさを出すのに対抗して、コマを細かくつながず表現の多様さを出すことを意識した行動であった。つまりアメリカというものを払拭することに力を注いだ。それが物語りや世界観の充実、イラスト、演出、画面構成の発達を導いた。その劣等感を払拭する行為は自動車・ラジオ・カメラの小型化通じる。
 そして現在のオタク・コスプレに対するまなざしの違いが浮き出る。Aオタク型コスプレを好むオタクは、アメリカが間に挟まっていることに無頓着・切り離しを行っているという仮説がたつ。SFちっくに魔法を使う女子高生がいようが、変身する巫女(セーラーマーズ)がいとうが関係ない。アメリカ的部分を切り離し、日本独自の文化と解釈する。逆にAのタイプを嫌うBのAV型=一般人は、アメリカが間に挟まる事に違和感を覚える。巫女は巫女のまま、女子高生は女子高生のままいることを望む。そして時にタブーを破ることで快感を覚えるのではないだろうか。
 アメリカ的なものの解釈、日本の本来的な伝統へのこだわりの差という無意識の違いが見る側の違いにつながるのではないだろうか。
posted by かじゅき at 20:02| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月06日

コスプレという居場所

 コスプレには常に性の問題がつきまとう。ぐろの意見で、コミケにおけるカメコ対策が提案された。しかし目的がわからない。何のために対策を練る必要があるのか。もちろん撮る人のためにではないだろう。では撮られる人の尊厳のためか?それも違う気がする。
 コミケに生息する人は類型でいくとAの結構コスプレ系にあたる。本人はある程度目立つために性を利用している。もちろん性を利用しない@完全キャラ系になる選択肢もある。その上でA選択肢した人が不幸にもパンチラを撮られる。そして裏雑誌に流されたとしても本人は傷つかないと思う。なぜなら本人がコスプレをしているからである。地の自分を隠し、創った自分を提示する。つまり別人格を提示する。別人格だからこそ日常では露出度が低い人が、コミケでは露出するのではないか。別人格を演じることを社会は嫌悪感を覚えるかもしれないが、空虚な現実を生きる手段として非難されるべきものではない。
 しかしもちろんがんがんパンチラを撮れという訳ではない。しかしこのコスプレに規制をかけることは社会のエゴである。性を乱れさせないことで満足している社会。虚構というものをはじめから嫌悪感を覚える人たちの攻撃である。規制をかけた時点でコスプレの意義を奪われることになる。@性を隠蔽するという日常の規範・道徳の放棄、A日常生活では自信がない人の変身願望を達成する場、B日常生活に居場所がない人のアイデンティティーを確立する場所、C日常に意味を見つけ出せない人に意味を与える場(俗→聖)、D虚構を現実につなげる場などを犠牲にすることになる。これはカメコ保護ではない。むしろコスプレする側の保護である。上記の意義を満たす手段として、たとえ性を利用しようとも、肯定するべきである。
 コスプレは空虚な現実を生きるための手段になる。規制は、その手段を制限することになる可能性があるので反対である。
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2004年07月05日

まなざしの変化

 またシューマッハが勝ったはった。またかよみたいな感じっす。あんまりF1は詳しくないんでもっと接戦を見たいんですよ。誰かシューマッハに注意してきてください(笑)まあそんなんはどうでもよくて、今回は制作実習4つ目の企画を考えあかんということで頑張ってみます。もういっぱいいっぱいっす。まあうちの班はまだ進んでるほうやしいいんですが。
 ゆかりさんにあくまで焦点をあてるという方向の企画。手術を通して世界観はどう変わったか、逆に世界からの見られ方はどう変わったかをインタビュー。以下は仮説+主観なんであんま気にしないで下さい。
 ゆかりさんの世界観の変化。まず変身前。ゆかりさんの女性を見る視線は羨望のまなざしであった。つまり女性への憧れ。女になりたくてしかたない自分。その証拠に嫌いな女性のタイプはまったく化粧をしない女性や、おっしゃれをしない女性。逆に女っぽい女性には憧れさえ抱く。
 そして変身中。憧れの女性になる決意を固め、さまざまな買い物をしていく。まずは化粧や服装から始まる。それでも納得いかない自分。男性の体に女性の体。とにかく居心地が悪い。次第に胸や性器を転換していく。そして自分の身体が男性から女性に変化していくうちに世界観が変化していく。
 変身後。ゆかりさんの女性を見る視線はライバルのまなざしに変化する。つまりもともと女性への対抗心。女になり同じ地平にたった自分。嫌いな女性のタイプは化粧をしない女性から、女らしい女性に変化する。
 そのほかにも面白い世界観の変化があると面白い。例えば男性観の変化、社会観の変化、仕事観の変化などなど。
 周辺の見方はどうか。手術前、男性はゆかりさんを嫌がると思う。女っぽい男はとにかく気持ち悪く思われる。中身と外見の不一致に対する違和感である。男性は今だに頭が固いのである。逆に女性は好むと思う。女性っぽい行動や思考は話がはずむ。性の不一致は問題ではない。
 しかし手術を重ねるごとに見方は変化する。男性は見た目と中身が一致していくことで気持ち悪いから女性として見るようになっていく。逆に女性は見た目も中身も女性になってくることで以前のように好印象を抱けないのではないか。かばちゃんである間は好感が持てる。なぜならキャラクターを見る視線であるからである。異なる地平にいることを認識できるからこそキャラクターを楽しめる。しかし同じ地平に立つとキャラクターを見るまなざしではなくなるのである。
 この変化も主観的なものであるので注意してください。
posted by かじゅき at 02:05| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 制作実習<TG> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月04日

ネオコン軍読売ジャイアンツ

 近鉄・オリックス合併!!!正直びびりました。なんでなんでって感じ。急に「赤字が・・」とかってどうなん?プロセス教えてよって感じ。でもそれよりもっとどうなん?って思わして下さる人がいました。それは巨人のなべちゃんです。この人見てるとアメリカが頭をよぎります。って事で今回巨人とアメリカってなテーマでいきます。
 一番驚いた発言。「年棒高沸はどうにかせんとなぁ・・・」。もう言葉がありません。あたかもリーダーシップをとってこの問題をどうにかしようとしているように見せかける。救世主きどりなのだろうか。おもいっきりマッチポンプっす。ネオコンと瓜二つっす。自分で問題作っといて、自分で解決。「俺ってすごいだろ?」みたいな。ある意味すごいっす。イラクに大量破壊兵器があるっていいながら民主化達成。クウェートにイラクを攻めさせて介入。ほんと似てる。本人は正しいと思ってるのがまたまた似てる。
 次に巨人ファンを代表して某T君の発言(T君ごめん)「もうけたお金をファンに還元してるしいいやん」。一見正当性あるんやけど、それは閉鎖的な空間でしか通用しないような。「アメリカが儲けてそれを国民に再配分してるしいいやん」って置き換えたらどうだろう。国民は大賛成。潰された国は大反対。でも発言できない。なぜなら弱いし金ないし、味方する国少ないし。
 んで改めてなべちゃん。近鉄を買収しようとした企業に対して「何でも金で解決すると思うな」って発言。漫才かなって思わせてくれるコメント。なべちゃん以外が金使うと嫌らしい。アメリカも自分以外が核持つんは嫌らしい。世界の平和のためにって・・・。じゃ自分が廃棄しろよみたいな。
 両者のネオコンっぷりは明らかやと思います。この二つは力を持ってるうちは今のままなんやろな。日本がアメリカ化する中で阪神も巨人化する現在。気持ちが悪いので日ハムファンになりたいと思いまする。
posted by かじゅき at 20:10| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月03日

「敗者の美学」という慰め

走っても走っても勝てない「はるうらら」という馬がいる。勝てないだけなら特別なことはない。でもこの馬なんかすっごい人気。入場者、馬券、グッズとかがすっごい売れる。高知競馬の赤字を背負っているとはいえ、超へんてこな現象。何でこんな負けてる馬が人気を持つのか。
 最近「はるうらら」のように、懸命に戦うが負けていくということに価値をおく「敗者の美学」が人気を集めている。本当に人々は勝負を超越した世界にいたいのだろうか?
「敗者の美学」はどのような条件で楽しめるか。それは本人と関連の低い物語であること。違う地平にあることで見世物として楽しめる。逆に本人と関連の深い物語である場合は「敗者の美学」は楽しめない。自分と重なるがゆえに「勝者の美学」である必要がある。自己のアイデンティティーと関わるからである。難しいのがその中間。本人とある程度関連はあるが、同じ地平ではない。この中途半端さにより、いずれの美学も楽しめない。
 例えば、高校野球は無関連(出身地、知り合いが出場は除く)だからこそ「敗者の美学」を楽しめる。「熱闘甲子園」という番組で物語を手に入れ、同じ地平にいない高校球児という存在の戦いを第三者の視線から観戦する。逆に日本代表の試合では自分たちと重ね合わせるため、「敗者の美学」などありえない。敗者はがっかりされ、時には非難さえされる。その中間はプロ野球である(出身地、ファンは除く)。例え毎日本気で戦い、涙を流してもきっと「敗者の美学」にはならない。しかし必死に継投、選手の補強などの勝ちにこだわっても「勝者の美学」にもならない。
 結局、人々は勝利より敗北を望んでいる訳ではない。その証拠に自分と同じ地平では「勝者の美学」が今だに人気を持つ。日本人は横並び意識が強いと言われる。しかし現在は自分と無関連の「勝者の美学」には不寛容になった。以前と比べ価値が多様化し、明確な勝者像というものが曖昧になり、勝者感が得られなくなった。その中で自分と違う地平にいる人の「敗者の美学」という物語を消費し、自分を慰める。勝ちより負けがリアルな世界になった時代を生きる手段として、他者の敗北を利用しているのではないだろうか。
posted by かじゅき at 18:00| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月02日

コスプレできない男

今日も制作実習企画落とされてへこへこやわ。3パターンも出したのにー(泣)また企画考えんな。ところでそろそろゼミのグループ研究も頑張らなぁ。ってことでコスプレ類型に引き続き、コスプレできない男について書きまっす。
 前回いったようにコスプレにはさまざまな類型がある。しかしそれを幅広く使用しているのは女性である。つまり既存の価値を使いながら、本当の自分を隠し、作った自分を提示する。男性は女性がコスプレをするのをただ見るだけである。
男性はコスプレが出来ないのか。どうやらコスプレの世界にもジェンダーの役割が存在するようだ。
 女性に生まれることは、割り当てられた空間に生まれる。その結果、女性は自身の中に観察者と被観察者の2つに分離する。観察者の部分は人にどう扱われたいかを意識する。そして被観察者は扱われたいように表出する。その観察者のまなざしは男性の視線を意識することになる。その手段として既存の価値を利用し、コスプレをする。
 それに対し男性は自分の能力の有望性に依存する。対象は常に外である。だからコスプレなど服装による主張はできない。能力に関わらないからである。服装によって自分を表出するのではなく、行為によって自分を表出する。そして行為によって見られたい自分を提示する。スポーツする自分、喧嘩が強い自分、歌がうまい自分などなど。何にしても行為による外部への表出がポイントとなる。男性は既存の価値を利用することに抵抗を感じる、創造を目指すのである。
 一般男性は既存の価値を利用するのを拒絶する。(結果として既存の価値を使うことも多いのであるが・・)。逆におたくは既存の価値を利用する。(本人は否定するだろうが・・)例えば、ストリートダンサー(以後ダンサー)とDDRをする男性の違いである。どちらのタイプも他者に自分の行為を見てもらいたいという点では共通する。異なるのは想像か既存の価値であるかである。ダンサーは一定レベルの技術のあとは創造性を要求される。常に新しいものを目指す。空間・時間に制限がなくまったくの自由である。それに対しDDRも一定レベルを極めてあと、想像することを要求される。しかしそれは空間・時間に制限がある。虚構を利用した範囲での想像である。しかしダンサーと異なり無限の想像からは開放される。
 現段階ではなかなか男性はコスプレ(既存の価値を利用)することには否定的である。更に外部への表出にこだわる。その中でDDRは男性がコスプレをするための第一歩を踏み出した形態なのかもしれない。
posted by かじゅき at 00:09| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月01日

コスプレ類型

 初グループ研究報告。いやいや疲れましたよ。いったいうちの班は企画決めにどれほど時間を使ったか。何か15時間以上はまじで話してたよーな。ってか飲み入れたらもっと喋ってる勢いやし。企画決まって油断をしちゃいました。これはまずいと集まったらねたがいっぱい出ていい感じやった。一回で書ききれないから今回はコスプレの類型。
 @超オタク型。このタイプはいわゆる超おたくかもしれない。コスプレには性が絡むって前提で話をしてた考えをひっくり返す可能性あり。見る方は性じゃなくキャラに興奮。着る方は目立ちたいが性は隠蔽したい。例えば、スターウォーズ、ポッタリアン(岡本さんいわくハリー・ポッターのコスプレらしい)、性のにおいがしないアニメ・ゲーム・漫画キャラなど。コミケに生息すると思われる。
 Aオタク型。このタイプも俗にいうおたくだと思う。コスプレに性が絡むという前提に半分当てはまる。見る方は性とキャラ同時に消費する。着る方は性を利用しながら目立ちたい。例えば、チュンリー、エヴァンゲリオン、ネコキャラ、スカート短いメイドなどである。コミケと一部コスプレ喫茶に生息すると思われる。
 BAV型。このタイプは普通と呼ばれる人かもしれない。これは超性が絡んでいる。見る方も着る方も性を意識する。全般にこれらの性は、規範・道徳を持ってそうな役割のコスチュームを利用する。規範・道徳破るいやらしさである。例えば、メイド、ナース、ミニスカポリス、スッチー、女教師などなど。チャイナ服の歴史わかる人は誰か教えてー。バイト系、風俗に生息する。
 C儀礼系。これはみんな通る道。着る方は人生のふしめをコスプレでむかえる。性のいやらしさはない。例えば、着物やウェディングドレスなどである。
 @〜Cは非日常系である。限定された空間・時間で見られる。@Aともに物語を消費されたいという欲望があるため都市に出ることはなかなかない。認められる空間で目立ちたい。BもCも非日常性が大事。日常から規範を破りまくったり、神聖な服を使用することは特別性がなくなってしまうからである。
 Dファッション型。このタイプは変に見られる人かも。着る方は性を拒否しながら目立ちたい。キャラではないが、既存の形態を利用する。例えば、ギャル・ロリータ・シノラー系(古いですが・・)。日常に何気なく生息。
 Eブランド型。このタイプはコスプレには見られない。着ている方もコスプレは意識していない。性は拒否していないし、目立ちたい。これも既存の形態を利用する。○○系という記号を使う意味でコスプレといえる。例えば、おねー系、おにー系、Bガールなどなど。全体的に服装・化粧が似る。趣味も似る。集まる場所も似る。態度・話し方も似ることもある。
 あくまで没個性的ではある。しかし私たちの主張はこのようなコスプレ的生き方を肯定しようとするものである。
 追加。F模倣型。これはただ単に既存のキャラの真似。流行に左右される。性のにおいはしない。
posted by かじゅき at 20:17| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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