2004年08月29日

4 ファッション系コスプレ

4 ファッション系について

 これまで見てきたコスプレは非日常系コスプレである。つまり日常と非日常の境界がはっきりしている。日常というものに苦悩・空虚さを感じ、その一方で非日常に生を肯定する時間・空間を見出す。この境界の明瞭さにより、手軽に変身し、違う自分を演じることができる。一時的な変身である。
 それに対してここで提示するのはファッション系コスプレである。これは非日常系とは異なり、日常、非日常の境界がない。よって変身ということを意識しにくい。しかしながら日常のファッションにおいても、自覚的・無自覚的を問わずコスプレにより変身を行っている。ここでは「マイノリティー系」「プライオリティー系」に分けて話を進める。


4 ファッション系まとめ

 ファッション系は服装の裏に潜むイデオロギーを利用する。時にファッション系は社会的認知の低いイデオロギーを利用する。例えば「死」「お姫様」である。これらは社会から見れば空想的で、反社会的かもしれない。しかしこれらのイデオロギーを利用することで変身し、生を肯定することを可能とする。それは社会的認知の高いファッションでも同じである。例えば「お兄」=「かっこいい」、「Bボーイ」=「いかつい」などである。これらの認知の高いファッションの中にもイデオロギーがありそれを利用し、変身し、生を肯定する。
 しかしファッション系コスプレは、非日常系のように日常と非日常を明確に分けたりしない。よって手軽な変身、別人格を演じるといった感覚が生まれにくい。特に「プライオリティー系」はそうである。しかしこれらの服装の裏に潜むイデオロギーを利用する「コスプレ的思考」を身につけることによって、手軽な変身、別人格を演じるといった感覚が生まれる。
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2004年08月28日

4−1 マイノリティー系ファッシ 

4−1 マイノリティー系ファッション

 マイノリティー系とは、日常ファッションではあるが一般的に許容されてるとは言いがたい服装。人数が少ないというよりは、社会的なマイノリティーといえる。例えばロリータファッション、センターGAYなどがあてはまる。
 
これらのコスプレは、非日常系のアニメ系がキャラクターを利用したり、風俗系が性を利用したりするのとは異なる。
 具体的に話していくと、ロリータファッションでいうと厳密には2つのロリータファッションが存在する。1つは黒と白を主に使ったゴスロリといわれるロリータ。2つは白やピンクなど可愛い色を主に使った甘ロリといわれるロリータ。これらのロリータは、コスプレと一緒にされることを嫌がることや露出が少ないことから、アニメキャラクターであることを拒絶し、性を出すことも拒絶する。
 ロリータファッションが利用する価値は服装の裏に潜むイデオロギーである。ゴスロリでいうなら「死」というイデオロギーを利用する。服装は黒系が特に多いし、棺桶や十字架という「死」を意識するようなものが多い。音楽でいうと暗い歌詞を歌うバンドが人気を持つ。人気バンドの曲には「絶望」「死して魂」「茫然自失」など「死」と関わるタイトルが並ぶ。更に行動面ではリストカットや薬の大量摂取というものが価値を持つことも少なくない。ただし彼女らは本当の死を望まない。生を肯定する手段として「死」と向きあっているのである。
 ゴスロリファッションの裏に潜む「死」というイデオロギーを利用するために、同じ雑誌を買い、同じ場所に集まり、同じ趣味・行動を持ち、同じ服装をする。そして生を肯定する。それが甘ロリだと「お姫様」というイデオロギーを利用しているかもしれない。センターGAYなら「とにかく今を楽しむ」というイデオロギーを利用しているかもしれない。

 これらの「死」「お姫様」「今を楽しむ」というイデオロギーは一般社会から望まれない。現実逃避にも映るからからであろうか。よってファッション人口がある程度増えてもマイノリティーファッションとしての扱いを受ける。しかしこれらのように服装の裏に潜むイデオロギーを利用することで生を肯定している現状を見ると、マイノリティー系コスプレは単に批判されるべきではない。
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2004年08月27日

3-3 性の利用  

3-3 性の利用

 風俗型コスプレもアニメ系コスプレと同じ様に、空虚で苦悩に満ちた社会からの一時的な離脱、複数の自分を持つこと(変わりたい願望)を可能とする。異なるのはアニメ系コスプレがアニメのキャラクターを利用して別人格を演じるのに対して、風俗系コスプレは性を利用して別人格を演じることを可能とする。

 プライベート(カップルなど・・)の風俗系コスプレでいうと、コスプレ=性的という記号を利用することで、性を解放することを容易にする。つまりお互いがコスプレによって性を解放する場と認知できる。コスプレは変身のきっかけを与えるのである。日常であまり解放できない性を解放することで、日常とのギャップから別人格を演じている感覚になる。
 またバイト(風俗など・・)の風俗系コスプレでいうと、コスプレ=性的という記号を利用することで、・・・・・・・・(ここはまとめるん難しい。みんなの合意もないところやし。こうへいの手腕に任す)

 これらの風俗系コスプレができるのは性と自己が結びついていないからである。そもそも自己というものにあまりこだわりがない。だからこそ性を利用し別人格を演じる。逆に性と自己が結びついていると、性を利用して別人格を演じることはできない。自己を強く意識する人は複数の自分を持つことは難しいからである。
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2004年08月26日

3-2 風俗系コスプレの推移  

3-2 風俗系コスプレの推移

 風俗型コスプレとは、私たちが一般的にコスプレと認識するタイプのものである。例えばナース、スッチー、警官、女子高生、メイドなどである。不思議とこれらのコスプレには性の存在がつきまとう。どの世代においてもコスプレに性を感じる。しかし世代によって風俗型コスプレに対する性の感じ方に違いがある。

 上の世代と下の世代では、コスプレに対する性の感じ方が異なる。上の世代は下の世代と比べると、性に対して禁欲的な時代をすごす。つまり純愛・異性愛など典型的な性のあり方を強要され、性に関するタブーが多くあった。しかしその禁欲的な性のあり方に満足できない人も出てくる。禁欲的な性のあり方の反動として、性に関するタブーを破ることに快楽を感じる。その対象となるのが性からほど遠く、純潔で、性的であってはならない存在である。その性的であってはならない存在が、性的対象となることに性を感じるのである。
よって見る側にとっては、着る側の人格が制服と同等もしくはそれ以上に重要になる。つまり単に制服が女子高生でも意味がない。外見同様、中身である人格も女子高生であることが望まれる。よって上の世代にとってコスプレは制服と人格が一致することで性を感じることが出来る。

上の世代に比べると下の世代は性に対して寛容な時代をすごす。純潔や異性愛などの典型的な性のあり方が上の世代のように通用しない。よって上の世代のように禁欲的な性のあり方の反動として、性に関するタブーを破ることに快感を覚えることが減る。
ではなぜ下の世代がコスプレに感じるのか。それはコスプレが性的記号として成立しているからである。上の世代はタブーを破ることに快感を感じ、コスプレを性的なものとした。そしてそれは継続され、規模も増えるにつれ、少しづつ人々の中でタブーを破るということが忘れられ、コスプレ=性的という関係が成立していった。よってコスプレ=性的と認知する下の世代下とってコスプレがなぜ性的であるかを問うても、合理的な回答は返ってこないだろう。
よって見る側にとっては、着る側の人格が制服以上に重要になることはない。下の世代にとってコスプレに人格はさほど関係なく、制服それ自体に性を感じる。よって性(コスプレ)と人格が結びつくことがない。

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2004年08月25日

考察

 我々はこの論文を通して、多くの人から奇異のまなざしを受けるコスプレについて考察してきた。そしてコスプレは異常ではなく、正常な行為という結論に至った。

非日常コスプレでいうと、アニメ系コスプレ・風俗系コスプレは今だに奇異のまなざしを受けることが多い。しかし異常なことではない。量的な面でいうと、アニメ系コスプレでは○○万人規模があるし、風俗系コスプレでは○○円規模の市場がある。決して少ない規模ではなく、見過ごすことができない規模である。質的な面でいうと、1・2・3章で述べたように近代社会における「自己同一性」、「上昇志向」というものから逃れるという意味で、また空虚で苦痛に満ちた近代社会で一時的であれ生を肯定するという面で非常に意味がある。
現在正常と位置付けられる儀礼系コスプレと比較してどうだろうか。例えば成人式。量的にはほとんどの人が経験する。しかし質的な面でいうと、半ば義務化した単なる形式的行為になっている。現在異常とみなされているアニメ系・風俗系コスプレの方が質的には意味があるのではないか。

日常系コスプレでいうと、「マイノリティー系」だけがコスプレ的と見なされ、異常とみなされる。しかし「マイノリティー系」と「プライオリティー系」の差は社会の認定の程度差にしかすぎず、極めて同じ地平である。非日常だけでなく、日常のファッションからでもコスプレは常に行われているのである。

ただし日常系・非日常系ともに、単にコスプレをすれば良いとういう訳ではない。コスプレをしてもファッション型コスプレのように「自己同一性」「上昇志向」にとらわれることもある。またモダン系コスプレのように非日常社会に近代社会的思考を持ち込むかもしれない。さらに近代社会に空虚さ・苦悩を感じない人にとっても意味はないかもしれない。
しかし空虚で苦悩に満ちた世界からの一時的な離脱、「自己同一性」「上昇志向」からの逃避、生の肯定を望む人々にとって、それらを可能にする『コスプレ的思考』を身につけるきっかけとしてコスプレをする価値があるのではないだろうか。
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2004年08月24日

美主義を隠蔽する2つの仮面

MS(ミス・ユニバース)の選考基準は、@美A内面性B社会性の3点である。この記事では、選考組織による限定的な内面性と社会性の評価基準に対する非難をしている点では良い。しかし美について語らない点では同じだと思う。美も内面性も社会性も明確な基準がある訳ではない。しかし美について細かく語られることはなく、内面性や社会性ばかり語られる。これは他の女性の理想像コンテストでも同じであると思う。美というものについての評価は定着しているという事なのか。

しかし述べられはしないが確実に美は最も重要視されていると思う。僕が思うことは、美だけでは理想の女性として評価されないが、美は例外なく理想の女性像の最も重要な要素としてある。美だけで女性の価値を決めることはできなくなった。そこで美が理想の女性像のもっとも重要な要因ということを隠すために内面性や社会性というものが利用されていると思う。内面性や社会性というものアピールする事を通して初めて、美が女性像の要因として評価される事が許されると感じる。

例えば美人な女性がいるとする。しかし彼女が内面性などをアピールしないとする。この時、彼女は美しさという要素を備えているにも関わらず理想の女性として評価は高くない。逆に彼女が内面性などをアピールしたらとたんに理想の女性として高く評価される。
そして逆にあまり容姿がよくない人は理想の女性とされることはない。例え内面性・社会性が優れていてもである。そういう女性は偉大な人物や、偉大な母と表現される。この違いなんなのかはもう明らかである。

ここで実際に内面性が高いか低いかは重要な問題ではない。内面性というものは本来アピールしにくいもので、見えにくいものである。しかしアピールしないとなかなか評価されない。本当に内面性や社会性は理想の女性像の要素とされているのか。結論は、内面性や社会性というものは、理想の女性像の重要な要素ではない。社会はアピールされた内面性や社会性を必要とし、美を中心に理想の女性像が作られていることを隠蔽する道具として利用している感じがする。
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2004年08月23日

平等

産業化の進展にともなって、結果の平等、機会の平等は日本においてどのように変化してきたか。まず産業化にともない原理が転換したことに注目する。以前はマルクス主義的な「属性原理」が働いていた。つまり本人の努力、能力とは関係なく、生まれて以降の人生で変更できない属性を基礎として、人々を各種の社会的位置へと配分する。それから「業績原理」に転換した。つまり本人が何をどれだけ達成したのか貢献度に応じて、人々を各種の社会的な位置へと配分する。産業化にともない、まず原理が変化した。
その上でまず結果の平等をみる。結果の平等は一部実現された。本来ならば産業化と結果の平等は相成れないものとされていた。つまり産業化とは自由競争であり、効率の達成であり、勝者と敗者の差が歴然と出ることをやむなしとする方法である。しかし日本において産業化が進んだにも関わらず、結果の平等は促進した。日本で高学歴化が進むにつれ、ホワイトカラーが増加した。それにたいしてブルーカラーが減少した。それにより相対的にホワイトカラーの賃金が下がり、ブルーカラーの賃金がアップした。あくまで相対的である点から結果の平等の一部達成とした。
次に機会の平等をみる。機会の平等とは出自の影響が小さいことである。つまり親の地位、財産などによって生き方(職業・学歴)などが決定しないということである。これも産業化にともない、ある程度達成してきたといえる。それは身分制やカースト制に比べると明らかに機会の平等は達成されている。更に教育・職業の面でも自由度が高くなる。それに見合った能力・知があれば選択できる。つまり本人の力が重要視され、親の力が相対的に下がる。よって日本において結果の平等・機会の平等は昔に比べると達成されてきているといえる。

では今後の10年間にこれはどのように変化していくのだろうか。まずは結果の平等をみる。日本は工場をどんどん海外に求めるような流れがある。つまりブルーカラーを海外に任せるという選択肢をとった。これによりいったんは相対的に賃金のあがった国内ブルーカラーの地位は下がる。結果の平等の衰退の兆しである。更に、ホワイトカラー間でも上級と下級では差が広がる兆しはある。それはここ最近政府が必死に成立させた、年金制度と保険制度である。更には住民税である。小泉首相の「国民に痛みを・・・・」ともっともらしい言葉がメディアに充満する。国民も不景気の閉塞感からか見栄えの良い言葉に食いつく。ここ数年の小泉人気はこの閉塞感にささえられる。しかしここでいう国民とは何か。私の見解では上級ホワイトカラー以外の人々をさす。国民負担という怪しい負担。何で平等のために住民税が一律になるのか。上級ホワイトカラーの特権を守るために国民は負担を背負うのか。現在メディアは反抗しているが後の祭りであった。国民に火がついた時にはすでに成立。メディアが残したものは形の見えない不安だけである。抽象的なだけ


にたちが悪い。国民の心身を目に見えない不安が襲う。さまざまな権力(行政・立法・マスコミ、、、)による不安のあおり、これにより人々は自分の身を守るために平等を捨てるかもしれない。自分の身は自分で守る信念。個人主義と自己責任の大流行。それ以外の選択肢はなくなってくる。国・政府が何のために存在するのかわからなくなる状況である。共同体の信頼関係は失われ、他者を思う気持ちはなくなるだろう。徹底的な競争社会にシフトする。終身雇用制が見直され始めた時期であったが、また自由競争に舞い戻る。これから10年で確実に格差の兆しが見え、そして50年後には結果の平等は崩壊しているのではないか。
次に機会の平等について。これも衰退するのではないかという不安がある。もちろん相対的なものであって、身分制やカースト制のような話ではない。階級や身分などという顕在的なものでなく、階層という潜在的なものであると思う。つまりあからさまな形でなく、ひっそりと機会の平等を脅かす。もちろんここでいう階層は移動可能なものではあるが、移動に制限がかかっていくのではないか。1つに香山りかという精神科医がいう「エディプスコンプレックスの不成立」。以前はエディプスコンプレックスが成立しており、父親に対する反発が確かにあった。二世と呼ばれることに抵抗と怒りを感じる人が多かった。しかし最近はどうだろうか。親のこねを公然と使用する人は確実に増加している。この現実は何を示すか。それは階層の石化である。つまり階層間の移動が難しくなる。にも関わらず一般レベルではみんなスタート地点は同じという言説が力を持つ。スタートで不利を受けている人たちの言い訳の余地がなくなる。成功しなかった人たちに対し、「あなたの努力不足ですよ」という言葉が正当性を持つ。機会の平等でも形のない不安がつきまとう。人々はやはり戦いにかりだされる。目に見えないところで確実に階層化が進んでいくのだろうか。二世議員、二世タレント、二世○○・・・・。機会の平等は相対的に衰退するのではないか。
結果の平等・機会の平等に対して悲観的な見方を提示した。これはあまりにも極論かもしれない。この夏の参院選で軌道が変わる可能性もあるし、政権が変わらなくても世論、メディアが徹底的に抗戦するかもしれない。さらに香山りかの見方もどこまで支持できるかはわからない。景気によって流動的に動くものなのかもしれない。しかし悲観的にならざるを得ない状況もある程度そろっている。よって私は10年後の日本は、結果の平等・機会の平等は相対的に低下すると考える。
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2004年08月22日

私鉄文化

@ 私鉄誕生以前、中産階級は郊外に住むことが出来なかった。それは日本が職住分離体制であったため、必死に働く必要のない裕福な人しか郊外に住むことは出来なかった。しかし私鉄の誕生は、通勤の幅を広げ中産階級の郊外住居を可能にした。 
A それにともない、狭い土地で災害・火事を意識し、借り住まいであったのに対し、広い土地で、庭付きの家を購入することが可能となった。そして住宅ローンというものが始まった。中産階級に一戸建ての夢を与えた。
B 私鉄は職だけに焦点を絞るのではなく多角的ディベロッパーを目指した。平日は都心に通勤する父親、都心のデパートに買い物に行く母親、逆に郊外に通学する子供というように多角的な方向性で郊外の価値を上げた。対象を個人単位から、女性や子供を含めた家族単位にした。
C さらに土日は、都心に家族で百貨店に向かい買い物をする。家族で楽しめる空間を作った。さらに郊外に少女歌劇を見に行く。遊園地に行く。野球を見に行く。などなど裕福な家族が、数日かけてリゾート地に行くのに対し、中産階級の家族が、日帰りでアーバンリゾートに行くということを可能にした。
D そしてそれらをメディア・ミックスで盛り上げた。電鉄とメディアが提携し、中産階級の理想の暮らしを形づくっていった。これは皮肉ではない。 

  私鉄文化は間違いなく「健康な資本主義」、「中産階級の楽園」というテーマを一時的ではあれ達成したといえる。
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2004年08月17日

新1-4 『コスプレという変身』

1-4『コスプレという変身』

 『永遠回帰』という生き方が出来れば生を肯定して生きられる。しかし空虚さ・苦痛を感じる世界で、なお生を肯定することは難しい。根本的に世界や生に対して否定的であるからである。現在では「物語」が消失し、世界の空虚さを多くの人が感じ始めている。

 ここで空虚・苦痛を感じる人たちが逃避の手段として用いるのが『コスプレ』という変身である。変身になぜ衣装が必要なのか。これは絶対的に衣装に依存するわけではない。衣装なしで変身することも可能である。しかし衣装というのは外見を変容させ、周囲からの認識を簡単に変えることが出来る。周囲の認識が変われば本人の認識も変わる。外見と内面は相互作用するのである。よって衣装を促進するという役割を果たす。

では変身の意義とは何か。それは空虚で意味を見出せない日常(俗なる世界)に対して、無理やり意味づけたり、肯定したりすることは難しい。だからこそ空虚で意味を見出せない日常から脱するために『コスプレ』を行う。『コスプレ』は非日常(聖なる世界)に参入するための儀礼行為である。その儀礼行為を通して日常を意図して忘却(健忘)する。そして非日常において生を肯定し、意味を見出す。
ここで注意が必要なのは、@非日常に<自分>や「上昇志向」を持ちこむことは意味がない。それは結局、別の社会に近代社会を作り上げるだけである。A全てを忘却することは許されない。ここでいう変身は日常に戻ることが前提であるからである。人は複数の社会を生きなければならないのである。
しかしながら、『コスプレ』は一時的であれ<自分>や「上昇志向」という近代的思考から逃れ、一時的であれ空虚で苦悩に満ちた世界を肯定すことができるのである。

 
 

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新1-3 『空虚な世界への2つの態度』

1-3 『空虚な世界への2つの態度』

 生に苦悩を感じる人は、2つの根本的態度をとりえる。1つはルサンチマンから世界と<自分>の否定という態度。2つに巨大な苦悩にも関わらず生を是認する態度。ニーチェは前者は生への欲望を卑小化させ弱体化させる。後者は生への欲望を高貴にし、尊厳あるものとする。

 ここで問題なのが「卑小な人間」や「弱者」が『永遠回帰』をすることが可能か。もともと「高貴な者」や「強い人間」はルサンチマンを克服する力を持つ者のことである。ここに『永遠回帰』の最後の関門がある。
 ニーチェはそれに対し「もし私たちがたったの一瞬に対してでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、全ての生存に対して然りと断言したのである」と答える。たった一度でもほんとうに深く生を肯定できる瞬間があれば、人は「無限の反復」を欲するという可能性を持つという。

* ルサンチマン思想とは?
・ 「願望と信仰」から、全ての人間が「平等であったらよいのに」や、「平等であるべきだ」という考えから生まれる嫉み、復讐心。人間の平均化は、互いに自由を束縛し、虚弱化した制度を作り出すことになる。自らは上を目指す一方、他者が上にいくことを嫉む。(キリスト教的システム)
・ そういう意味においてニーチェは強者と弱者の秩序が存在することを是認することが大事だという。
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2004年08月16日

新1-2 『近代社会からの逃走』

1−2『近代からの逃走〜永遠回帰という方法〜』

 近代日本において人々は、成長や進歩という「物語」を共有していた。それが多くの人の<自分>や「上昇志向」を満し、空虚さ・苦痛を意識する人が少なかったといえる。
 しかし時代が変わり、成長や進歩という「物語」は消失し、自明の世界観というものがなくなった。そして<自分>や「上昇志向」という近代が作りあげた思考に空虚さ・苦痛を感じる人が生まれてきた。

 そして人々は<自分>や「上昇志向」というものから逃れようとするようになる。それのヒントになるのがニーチェの『永遠回帰』の概念である。

『永遠回帰』には3つの側面がある。@機械的思考の極限形式。世界はまったく同一の状態を永遠に反復しているという観念である。『永遠回帰』を「エネルギー恒存の法則」と照らし合わせる。つまり世界の有限性+エネルギーの有限性という2つの根本命題を含む。時間そのものには始点も終点もなく、世界は永遠回帰すると考える。わかりにくい人は摩擦のないビリヤード台を思い浮かべると良い。台=世界、玉=人、そして台の中で玉は動き続ける内にどこかで同じ順序と脈絡で反復する。
 このような機械論的思考は伝統的世界観を破壊する。(A)世界は神が創造した。よって世界には意味がある。(キリスト教的)(B)世界は進歩、発展する。(近代哲学的)(C)世界には始まりがある。(唯物論的)などの世界観を停止させる。つまり「超越的」な価値観を全て禁じ手にし、世界を是認するのである。

 Aニヒリズムの極限化。@の反面として、世界は始まりも終わりもなく、したがって動機も目的もなく、永遠運動する機械のようにただ存在しているにすぎないという思考を生む。世界の外側に超越的な意味もなく、「死んだら終わり」という感覚を持たせる。
 逆に「生きてるあいだは・・」という観念も生まれるが、『永遠回帰』は「生きてるあいだは・・」という観念を認めず、「何をやっても一切は決定されている」という観念である。このように『永遠回帰』はニヒリズムを極限化するのであるが、それ以外にニヒリズムを克服する術はないとニーチェは言う。

 Bルサンチマン克服、生の肯定。『永遠回帰』は単に根本的価値顚倒のための思想でなく、価値創造にも関わる。ニヒリズムの徹底の果てに現れる「聖なる虚言」、つまりこれまでとは異なる新しい「価値創造」の原理である。キリスト教の「虚言」は生を否定し、信じれば救われるといった「救済の物語」であった。それは新しい神を作り出すことになる。「聖なる虚言」は生を肯定し、超越的なもの(神)の復活を拒絶する。そのことが生の「是認」から「肯定」へと進む。  
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新1-1 『近代社会の苦痛』


1−1 『近代社会の苦痛〜<自分>「上昇志向」〜』

 なぜコスプレをする人が増えているのか。それは人々が近代社会に苦痛を感じているからである。
 

では近代社会とは何か。それは「今の自分に満足できない」「今よりもすばらしい自分になりたい」。常にワンランク上の<自分>を目指したいという欲望は、誰しも抱いてるのではないだろうか。このような<自分>や「上昇志向」を強く持つことが近代的だといえる。
 
近代社会は「個人主義」というものを生み出した。「個人主義」の出現により人々は自由が増え、伝統の命ずるところに従う必要はなくなった。しかし「個人主義」の出現は、今まで無意識に<自分>というものを意味づけてくれていたキリスト教的価値を失った。そして近代はキリスト教的価値の代わりを打ち立てられずに、キリスト教的価値を「道徳」や「真理」というものに変装させながら生き延びさせた。近代以降はニヒリズムがにじみ出ることになる。
よって人々は意識的に自分で<自分>の存在を意味づける必要が出てきた。近代社会はニヒリズムが充満する。人々は常に生存の無意味さに不安を持つ。だから人々は<自分>や<個性>というものに敏感になり、常に<自分>を意味づけようとする。

更に近代社会は、<自分>というものの上に「上昇志向」というものがつきまとう。M・ウェーバーによると近代的精神の中核をなすものは、プロテスタンティズムの宗教的教えから生まれた「世俗的禁欲」と呼ばれる生活態度である。「世俗的禁欲」とは、「常に目標に向かって努力し、全てを犠牲にしてでも目標達成しなければならない。更に1つの目標が達成されれば次の目標に向かい、更にまた次の目標に向かって努力することを求められる」のである。つまり終わりのない努力である。
 これらの禁欲は食欲や性欲といった欲求を抑制するにとどまらない。「世俗的禁欲」は自己審査・自己統制を、消極的・受動的でなく、積極的・能動的に行う。あくまで強制でなく自発的に行う。人々は<自分>を厳しく律しながら、常に目標を持ち、常に目標に向かい努力するように、常に「上昇志向」を持つように扇動される。 

*ニヒリズムとは・・伝統的な既成の秩序や価値を否定し、生存は無意味とする態度。
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2004年08月15日

まなざしの違い

 今日はグループ研究から帰った後、ネタ探しということで「息子のまなざし」を見ました。とりあえずこどもの世界観みたいな漠然としたテーマやし映画がヒントになるかと思って見たんやけどちっと違った。てか関係なかった。

 望んでたんはある物事に対しての子供の見方と大人の見方の違いが出てたらおもろいと思ったんやけど、そういう話じゃなかったらしい。なかなか子供世界観って難しい。

 関連映画とかあったら誰か教えてなー。
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2004年08月14日

監視社会

 ちっと前の話やけど、待ち合わせ時間より少し早く到着。暇やし普段気にしないけど周りをきょろきょろ。「げっ!!」最近ってこんないっぱい監視カメラあるんやって改めて確認って感じやった。むかついたのでカメラを激写してやりました。まぁ死角からですが(^^;)
監視社会2
監視社会1
近年監視カメラが増加している。それには大きく3つの問題がある。
1つは権力が入る可能性である。現在は深い意図もなく監視しているだけかもしれない。監視にはまだ抵抗感はあるかもしれない。しかし事件が増えることで監視カメラを権力が利用することになるかもしれない。監視の正当性が出るからである。そしてカメラが犯罪を起こす個人を特定する道具になっていく。そうなることで大衆はカメラの向こうにある権力のまなざしを内在化する。大衆は外的権力でなく、内在化した権力に従う。内在化された権力に従うことは大衆の抵抗の可能性を減らす。社会の多様性がなくなる不安がある。フーコーの監獄の誕生せいう「パノプティコン」的。
 2つは大衆心理を不安にする。街のいたる所にカメラが存在する。それが大衆の不安をあおる。実際に犯罪が減ってもこの不安がなくなることはない。監視カメラの存在が、危険をにおわせ、安心するなという記号になる。そして人々は自分以外の存在を常に疑うことになる。都市の存立条件である、匿名性の人物への信頼性がなくなる。
 3つにプライバシーの問題。常に行動が監視される。それにより地下文化はますます地下にもぐることになる。一般文化と地下文化の境界がくっきり分かれてしまう。そして注意すべきである地下文化には目が届かなくなる。
 よって犯罪がたとえ減ったとしても、監視カメラを大量に設置し、権力が監視することには反対である。
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2004年08月13日

ぴーすなおやじ

『風俗から見えるピースなおやじ』

 夜の街に多く立ち並ぶ風俗店。いやらしいことは行われていないという名目とは正反対に、ほとんどの人々がそういうことが行われている空間だと認識し、実際行われている。そして人々は風俗店に勤める人、通う人に嫌悪感や違和感を抱くことも少なくない。それは風俗という空間が性を売り買いしている空間という認識があるからだと思う。

 それを証明するように「援助交際」「ブルセラ」など性を売り買いする現象に社会は大きな嫌悪感を抱く。

しかし最近風俗店でおかしな出来事が増えているという。「抜かない」更に言うと「抜きたくない」(性行為を行わない)というおやじが増えているらしい。一般認識を覆すような現象である。
 
@なぜそのようなおやじが増えているのか。おやじ世代では「性行為」が異性間コミュニケーションの最高価値という認識が強い。しかしその価値観が変わってきたのではないか。だからこそ「性行為」以外のコミュニケーションを行なう。
*皮肉としては「性行為」が最高価値でないことを実証するために逆に禁欲的になってしまう。他のコミュニケーションと同等と認識するには至らないようだ。

 Aではなぜキャバクラ(賃金を支払って女性とお酒を飲むところ)でなくて風俗なのか。単に「性行為」以外のコミュニケーションを望むならキャバクラに行くのではないか?という疑問が残る。
 風俗はその場限りという認識が強い(あくまで比較的であるが・・)。つまり一時間料金を払い、一時間で完結する。プライベートという感覚が生まれにくい。提供された時間だけそれに対してキャバクラは一時間料金を払い、一時間で簡潔しない。店外でもおやじと女性の駆け引きが続く。そのような駆け引きのわずらわしさからキャバクラを避けるのではないか。
* 皮肉としてはその場というわかりやすい区切りがないと割り切れないという、おやじ世代の頭のかたさを指摘できる。

 何か結局ピースでなくなってきた感じ(笑)まだインタビューもしてないしはっきり断言できない段階やけどなあ。@、Aについて意見ある人は何かゆーてな。
posted by かじゅき at 01:01| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ぴーかん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月12日

1-4「変身という手段」 1-5「衣装の力」

はぁー。今日(11日)はすんごく頑張った。俺すげー(笑)昼の10時起床。そっから夜中の3時まで17時間勉強してやった(><)。
 ニーチェ読む、焼きそば食べる、かふか読む、ニーチェまとめる、ぐろと電話、ニーチェまとめる、デザート食べる、明日のオファー円滑に進めるために800字レビュー改訂版を3つ作成、報道ステーション見る、ブログに書き込む、800字レビュー読む。今勉強意欲最高です。

 こののりで藤岡ゼミの『ピーカン』参加したい人っている??12日(木曜日)の昼間に正式にオファーが来るそうです。テーマも人数もまだ聞いてないんやけど参加意欲ある人は言って下さい。特集を組んでもらえるらしいので気合入れてやる気です。仕切る気も満々です。

1-4『変身という手段』

 『永遠回帰』という生き方が出来ればより生を肯定して生きられる。しかし「ルサンチマン」を持つ人たちが『永遠回帰』をすることは難しい。根本的に世界や生に対して否定的であるからである。現在では真理・道徳の空虚さを多くの人が認識し始め、ルサンチマンを持つ人がより増えたのではないか。

 ここでルサンチマンを持つ人たちに提示したいのが『変身』である。空虚で意味を見出せない日常(俗なる世界)に対して、無理やり意味づけたり、肯定したりすることは難しい。だからこそ空虚で意味を見出せない日常から脱するために『変身』を行う。『変身』は非日常(聖なる世界)に参入するための儀礼行為である。その儀礼行為を通して日常を意図して忘却(健忘)する。そして非日常において生を肯定し、意味を見出す。もちろん全てを忘却することは許されない。ここでいう『変身』は日常に戻ることが前提であるからである。しかしながら「健忘」と『変身』をたくみに使いながら、生を肯定し、意味づける方法は良い方法である。

1-5『衣装の力』

 『変身』になぜ衣装が必要なのか。これは絶対的に衣装に依存するわけではない。衣装なしで『変身』できる人もいるだろう。しかしながら衣装っていうのは外見を変容させ、周囲からの認識をてっとり早く変える。周囲の認識が変われば本人の認識も変わる。よって本人にとって影響力は強い。外見は内面に作用し、また内面は外見に相互作用する。非日常をすごすときの他者認定と自己認定の役割を果たす。
 

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2004年08月11日

パロディーについて

ジョン・フィクス『パロディー論』

1.パロディーとは
・一般には他人の作品の構成や文体の特徴をまね、滑稽さを増すなど操作し、もとの作品をからかうこと。しかし音楽や文学における(引用)など、からかいを目的としないパロディーも存在し、芸術の本質論に関わる。(百科事典より)
* 前者はお笑いの物まねが当てはまる。ここで問題とするのは後者のパロディーである。

2.パロディーの方法
・オリジナルの権威、伝統、憧れ、正当性を誇張、欠落、変形させること。
*1コピーとは異なる。コスプレでいうアレンジに当たるのか??

3.パロディストへの憧れ
 前提:マドンナはパロディストの代表人物
   *2マドンナファンまたはオタク型はコピー?パロディー?
・パロディストのファンに対する一般認識=文化中毒者
             ↓しかし
@ イデオロギー統制のすり抜け
A 中心的価値(権力、視線)への抵抗
B 自己決定の感覚(自己、性、対人関係)

4・パロディーの意義
(1)中心価値への抵抗
  ・一般社会のシンボル体系(十字架=宗教的)を自分流に解釈し(十字架=美の象徴)、一般社会の既成の記号表現を使いながら一般社会の記号内容を拒絶し、あざけり笑うことで、自分の力で自分らしく生きることを可能とする。
   *3AV型に当てはまる??一般的価値ナース、スッチーなど性的でないというイメージを、自分なりに解釈し意味合いを変える。そして自分の力で生きることを可能とする。(コスプレ焼肉を思い出すと良い)
   *4オタク型は当てはまるのか?

 (2)中心価値の提示
   ・パロディーによってオリジナルをずらすことによって初めて中心的価値を明ら
    かにする。そして従来の中心的価値に疑問を与える。
    (例)唇より大きく塗る口紅→この違和感が口紅の適度な量を提示する
       宝石をじゃらじゃらつける→この違和感が宝石の適量を提示する
posted by かじゅき at 00:00| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月10日

1-2 改定『永遠回帰』

 1−2『永遠回帰』

 では絶え間のない「自己アイデンティティー」の確認と「上昇願望」から逃れるためにはどうすれば良いのだろうか。

 それのヒントになるのがニーチェの『永遠回帰』の概念である。『永遠回帰』には3つの側面がある。@機械的思考の極限形式。世界はまったく同一の状態を永遠に反復しているという観念である。『永遠回帰』を「エネルギー恒存の法則」と照らし合わせる。つまり世界の有限性+エネルギーの有限性という2つの根本命題を含む。時間そのものには始点も終点もなく、世界は永遠回帰すると考える。わかりにくい人は摩擦のないビリヤード台を思い浮かべると良い。台=世界、玉=人、そして台の中で玉は動き続ける内にどこかで同じ順序と脈絡で反復する。
 このような機械論的思考は伝統的世界観を破壊する。(A)世界は神が創造した。よって世界には意味がある。(キリスト教的)(B)世界は進歩、発展する。(近代哲学的)(C)世界には始まりがある。(唯物論的)などの世界観を停止させる。つまり「超越的」な価値観を全て禁じ手にし、世界を是認するのである。

 Aニヒリズムの極限化。@の反面として、世界は始まりも終わりもなく、したがって動機も目的もなく、永遠運動する機械のようにただ存在しているにすぎないという思考を生む。世界の外側に超越的な意味もなく、「死んだら終わり」という感覚を持たせる。
 逆に「生きてるあいだは・・」という観念も生まれるが、『永遠回帰』は「生きてるあいだは・・」という観念を認めず、「何をやっても一切は決定されている」という観念である。このように『永遠回帰』はニヒリズムを極限化するのであるが、それ以外にニヒリズムを克服する術はないとニーチェは言う。

 Bルサンチマン克服、生の肯定。『永遠回帰』は単に根本的価値転倒のための思想でなく、価値創造にも関わる。ニヒリズムの徹底の果てに現れる「聖なる虚言」、つまりこれまでとは異なる新しい「価値創造」の原理である。キリスト教の「虚言」は生を否定し、信じれば救われるといった「救済の物語」であった。それは新しい神を作り出すことになる。「聖なる虚言」は生を肯定し、超越的なもの(神)の復活を拒絶する。そのことが生の「是認」から「肯定」へと進む。  
 
posted by かじゅき at 04:17| 京都 ☁| Comment(11) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月09日

1−1 近代社会における「上昇志向」「自己」  

1−1 人はなぜ変身を望むのか?
 「今の自分に満足できない」「今よりもすばらしい自分になりたい」。常にワンランク上の<自分>を目指したいという欲望は、誰しも抱いてるのではないだろうか。このような欲望を「上昇願望」と呼ぶ。ではなぜこのような「上昇願望」を我々は抱くのであろうか。
 
 それは我々が近代社会に属するからである。近代社会は「個人主義」というものを生み出した。「個人主義」の出現により人々は自由が増え、伝統の命ずるところに従う必要はなくなった。しかし「個人主義」の出現は、今まで<自分>というものを意味づけてくれていたキリスト教的価値を失った。そして近代哲学はキリスト教的価値の代わりを打ち立てられずに、キリスト教的価値を「道徳」や「真理」というものに変装させながら生き延びさせた。近代哲学以降はニヒリズム的な価値がにじみ出ることになる。
よって人々は<自分>の存在を自分で意味づける必要が出てきた。近代社会はニヒリズムが充満する。人々は常に<自分>が消えてしまうという不安を持つ。だから人々は「自己アイデンティティ」というものに敏感になり、常に<自分>を意味づけようとする。

更に、M・ウェーバーによると近代的精神の中核をなすものは、プロテスタンティズムの宗教的教えから生まれた「世俗的禁欲」と呼ばれる生活態度である。「世俗的禁欲」とは、「常に目標に向かって努力し、全てを犠牲にしてでも目標達成しなければならない。更に1つの目標が達成されれば次の目標に向かい、更にまた次の目標に向かって努力することを求められる」のである。
 これらの禁欲は食欲や性欲といった欲求を抑制するにとどまらない。「世俗的禁欲」は自己審査・自己統制を、消極的・受動的でなく、積極的・能動的に行う。あくまで強制でなく扇動なのである。よって人々は自己を厳しく律しながら自ら常に目標を持たされ、目標に向かい努力させられるのである。 

近代社会の「個人主義」「世俗的禁欲」により、人々は常に「自己アイデンティティー」に敏感になるしかなく、常に「上昇願望」を持たされ続けるのである。
posted by かじゅき at 00:00| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月08日

古典へ走る

 二日ぶりの文章です。今日グループで集まるからどうしてもニーチェの本を読まないといけなかったんです。やからブログ書く暇がなかったん。というのも最近グループ研究をフィールドワークから文献調査に移行しました。んで変身とかパロディーとかのキーワードを重点に調べるとニーチェが頻繁に出てくる。やし古典を読む決意をした感じです。
 今回はニーチェについて軽くまとめたのと、ニーチェの文献についての考察です。文献ははっきりいってまじよくわからんでした。

1.ニーチェ思想の大きな三本柱?
 (1)キリスト教、近代哲学の「真理」「道徳」観念への批判(反ヨーロッパ的思考)
  ・ニーチェ的思考の禁ずる思考
   @「こうあるべきである」という思考を止める
   A「絶対平等」「ユートピア」「博愛」という思考を止める
   B「主体」「自己」とい思考を止める

 (2)ヨーロッパのニヒリズムについて
  ・「超越者」に対する「不信の構造」(信じたくても信じることができない)
   →人間社会に2つの両極的な問題を生じさせた。
@ 先進国・・充足による目標の喪失(信じれない)
A 途上国・・理念への葛藤(信じたい)
* 処方箋・・ニヒリズムの徹底

 (3)「価値の転倒」と「価値の創造」
  ・欲望が認識に先行する
   →従来は認識が欲望に先行した

2.ツァラトゥストラについて
『意に染まぬ無上の幸せ』
 ・愛とは?
  →隣人愛、同胞愛はない。まずあるのは自己愛。そして自分の使命と後継者である。
  →しかし愛に飢えることが命とりになることも。後継者の餌食になる。
* 対応策:幸福を遠ざけ、不幸を得ること

『人間を卑小にしてしまう徳』
 ・徳は人間を卑小にする
  →卑小になった人間は他の人間をも卑小にしようとする。
  →人間は卑小と幸福を結び付けようとする。
  →卑小な人間の中にも意思があるものもいる。しかし大半は他者の思惑に意思をゆだねている存在である。(偽善的である)
* 徳=人間を臆病にする



『オリーブの山』
 ・沈黙とは?(文字通りの沈黙ではない
  →自分の秘密(魂の底、究極の意思)をもらすことのない最善の方法。
  →監視人の眼をすり抜ける。

『通りすぎること』
 ・新聞とは?
  →生活排水となった汚れた言葉を使用している
  →汚れた精神から言葉を吐き出す
  →大衆は汚れた世論のとりこになる

 ・不平不満とは?
  →周りが自分にこびてくれない(よって周りに毒をはく)
  →不平不満は復習のための理由づけ

『脱落者たち』
 ・脱落者とは?
  →厳しい現実を見ると、俗社会に戻ろうとする
  →かれらは可も不可もない臆病者たちである

 ・勇敢な者
  →最初は死体と道化を見る
  →次に信奉者を目の当たりにするだろう(しかし信奉者は信奉できれば誰でも良い)

[参考文献]竹田青じ『ニーチェ入門』、ニーチェ『ツァラトゥストラ』
posted by かじゅき at 21:34| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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