2004年07月03日

「敗者の美学」という慰め

走っても走っても勝てない「はるうらら」という馬がいる。勝てないだけなら特別なことはない。でもこの馬なんかすっごい人気。入場者、馬券、グッズとかがすっごい売れる。高知競馬の赤字を背負っているとはいえ、超へんてこな現象。何でこんな負けてる馬が人気を持つのか。
 最近「はるうらら」のように、懸命に戦うが負けていくということに価値をおく「敗者の美学」が人気を集めている。本当に人々は勝負を超越した世界にいたいのだろうか?
「敗者の美学」はどのような条件で楽しめるか。それは本人と関連の低い物語であること。違う地平にあることで見世物として楽しめる。逆に本人と関連の深い物語である場合は「敗者の美学」は楽しめない。自分と重なるがゆえに「勝者の美学」である必要がある。自己のアイデンティティーと関わるからである。難しいのがその中間。本人とある程度関連はあるが、同じ地平ではない。この中途半端さにより、いずれの美学も楽しめない。
 例えば、高校野球は無関連(出身地、知り合いが出場は除く)だからこそ「敗者の美学」を楽しめる。「熱闘甲子園」という番組で物語を手に入れ、同じ地平にいない高校球児という存在の戦いを第三者の視線から観戦する。逆に日本代表の試合では自分たちと重ね合わせるため、「敗者の美学」などありえない。敗者はがっかりされ、時には非難さえされる。その中間はプロ野球である(出身地、ファンは除く)。例え毎日本気で戦い、涙を流してもきっと「敗者の美学」にはならない。しかし必死に継投、選手の補強などの勝ちにこだわっても「勝者の美学」にもならない。
 結局、人々は勝利より敗北を望んでいる訳ではない。その証拠に自分と同じ地平では「勝者の美学」が今だに人気を持つ。日本人は横並び意識が強いと言われる。しかし現在は自分と無関連の「勝者の美学」には不寛容になった。以前と比べ価値が多様化し、明確な勝者像というものが曖昧になり、勝者感が得られなくなった。その中で自分と違う地平にいる人の「敗者の美学」という物語を消費し、自分を慰める。勝ちより負けがリアルな世界になった時代を生きる手段として、他者の敗北を利用しているのではないだろうか。
posted by かじゅき at 18:00| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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