2005年05月07日

議論のすれ違いについて

JRの議論の続き。社員がボーリング行ったこととブーイングについて。このブーイングの本質は、『人命軽視』が問題か『上部の人間へ情報が伝わらないこと』が問題か。それとも他の部分で非難されているのか。

おいらの見解は、『上部の人間へ情報が伝わらないこと』が問題であって、ボーリングしても飲み屋行っても叩かれることじゃないと思う。これは議論のすれ違いだと思う。

んでこれを読んで欲しい。
http://rakudaj.seesaa.net/article/3130212.html

なかなか面白い話。かなり反響がある記事らしい。いろいろ考え方あるけどおいらの見解としてはやぱーりこれも議論のすれ違いが起こっている。

確かにピクニック行ったのに電車に座りたいおじいさんは間違ってる。(照らし合わせると事故を起こしたJRは確かに悪い)。しかし、それの非難の仕方がおかしい。

土日働くのも若者の勝手で、年金はまた全く別の問題(年金へ将来自分が貰うために払っているもので、ほんとに支えるだけなら年金じゃなくて直接投資すれば良い)。もっともらしく聞こえるけど議論がずれてる。

でも前提としておじいさんが悪いので、若者が正しく見える気がする。だからおいら達は一歩が明らかに劣勢に立っているときになされるブーイングの内容はしっかり吟味しなあかん。それは、ほんまに関係ある話なのか???これを問い続けることが大事。

いじめの原理よね。弱い人がケテーイしたら、後は何言ってもオケー。いじめる側が一致団結してるから。いじめられる側はもう平謝り。言い返しても無駄。それがまた新たなネタを作る。いじめっこ側に知らない間に回ってないかを日々確認していかな。
posted by かじゅき at 20:00| 京都 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月06日

ブーイングについて

何か連日のJRたたきが続く。

特に昨日あたりからボーリングと飲み会してた社員が袋たたきにあってる。
でも、これなんか違うんちゃうかなって思う。

確かに阪神大震災以来の体制になって会社としてはえらいことになってる。
そんな状況で普通に遊んだりボーリングすることは、確かにモラルが欠けてるといえばそうかもしれん。でもここまで話題にするべきことか。

記者会見の様子がよく映される。記者は「そんなとき玉ころがしっとたんかー」って言ってた。でもこれはワイドショー言ってることとかなり意味合いが違うと思う。

その部分の前後流す局と流さない局があるけど、前後を見たら印象が変わる。記者は単純に職員のモラルを追及するために質問してたんじゃないと思う。

「何人中何人が事実を知っていたか」「役職上の人物はその事実を知っていたか」。このような質問をすることは、このことがらから、JR内部の不透明さ、一体感のなさ、横のつながりの薄さを具体例をもって明るみにしようとしてたと思う(というかそう信じたい)

ただ単に連日職員のモラル違反ばかりについて言及するのはどうなんやろう。一次会どこでいくら使って、二次会どこ行っていくら使って、三次会・・・。それ追求して何が残る?社員に土下座でもさすか?んで何か解決するのか。

今はJRに対して何を言ってもメディアの勝ち。そんな状況やからこそ、こんなゴールの見えないことしてる場合ではないと思う。意味の分からんことで怒りをあおるだけ。と思ったり思わなかったり。



posted by かじゅき at 12:49| 京都 ☔| Comment(9) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月24日

ホリエモン

はい。今日返ってニュース見てました。出たっ!!ホリエモン。何かラジオ番組っぽいのに出てる。ほりえもんは、自分が経営に関わることでメディアの新しい形が出来るとずっと言ってる。その1つとして、ネットでの再生。

それに対して、局側の人はかたくなに「ラジオ=ながら視聴」を主張。つまり、車運転しながら聞いたり、作業しながら聞いたりする。

主張があほらしい。別に新しい形態になってもながら視聴が出来ない訳ではない。でもそればっかり言ってた。それがテレビ局の文化壊す可能性があるなら、DVDとビデオデッキ作ってるところ全部訴えていかなければ・・・。ジャパーンがほこるsony、松下などなどはメディアの敵ですか??

また、「ネットとラジオのコラボで双方向性が高まる」とホリエモンが言えば、
局の方が「パソコン開かなければいけないんですか」ばっか言う。
おいおい、それがながら視聴を壊すなら、FAX作ってる会社全部訴えなー。

また、「視聴者がほんんとに見たかったら、金払ってでも見る」というホリエモンに対して、「課金はちょっと・・」みたいな反論。でもそれやったら、ビデオ出す資格ないよな。一本結構な値段とってビデオ出してる手間を半減させただけやのに。

総じて、局の考え方は保守的。んで、反論にバリエーションがない。まぁ認めた時点でほりえもん拒否る理由がなくなるからやろけど。
posted by かじゅき at 19:27| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月20日

就活について考える人たち

久々に難しい話。このブログの当初を思い出すわ(  ・∀☆)意見ある人は是非巽君のページにコメントを><→http://blog.livedoor.jp/tatsu3312/

昨日ゼミ仲間の巽君が興味深い問題定義をしてますた。『何で就活はへこむのか』。む・む・難しい。これを巽君は今までは条理の世界(勉強による客観的要素)に守られてきた学生が、不条理の世界(勉強以外の主観的要素)のギャップ。今までは努力が数字に反映された。しかし、今は努力が数字にならず、努力が無駄に感じる不条理のためにへこむという考察。

でも客観的な数字で示されないというのを不条理と呼ぶなら、京大生や東大生が一番可愛そうやなー(  ・∀☆)o客観的にいけばいわゆる大企業は東大→京大→阪大・・・と割り振られていって、関西にあるよくわからん私大の関大生に回ってくる企業は・・。

と考えればある程度、巽君がいう不条理の恩恵は受けてるんじゃない??だって俺MR受けてるけど関大一番学歴低いよん。次に関学、立命、同志社がいて、公立がいて、国立がいて、理系がいて、薬系がいて、院生がいて・・・。

不条理(学歴無視)は条理(学歴)を破壊してくれる。やし前向きにいけば良いと思う。条理やったらみんないきたい企業いけない訳やし。(それこそコンビニ店長コースか・・)てか条理(勉学)やったとしたら、余計やる気なくします。勉強じゃ勝てないもん。

条理の世界で生きてきた人がいる反面、条理の世界を少し放棄してきた俺らにはその分別の強みがあって、それで結局公平なんちゃう?(福ちゃんのぱくり)。そんで就活はある意味その別の強みを拾ってくれる面白さがある。その別の強みの(感受性、行動力、論理力・・・)拾い方は企業によって違う。人が人の違う同じ要素を評価したり、評価しなかったりするように。だから縁とかいう言葉が不条理に見える。でも恋愛と一緒で努力すれば確実に付き合える訳でもなければ、数字になる訳でもない。よっぽどこっちの方が人間臭い。

ということは、本当の自分が評価されていないっていう「自分」幻想になっていくことが負のオーラスパイラルになっていくと思った。関大生は遊んでる半面、自分を条理の世界(勉学)に自分を設置してた。そういう意味では就活の方が凹むのかもしれない。本当の「自分」を否定された気分になるから。アイデンティティーの崩壊ってやつかも。個性時代の弊害や(笑)

逆に俺とぐろが無神経やったのかもしれないのー。ぐろは知らないけど、俺は最近やりがいの方が大きいの。「自分」否定の部分が少ない。そら落ちたら凹むけど、就活じゃなくても凹むから、ちっと意味合いが違うのかな??

社会的条理(学歴)を乗り越えるチャンス。不条理を謳歌してやるって感じ。まぁ要は気分の持ちようで凹み具合が変わるいうことになるかな。条理の中に自分がいると捉えたら辛い。でも条理なら関大生は負け組みです。だから俺は条理の中にいないと捉えてるから前向きなんかな??
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2004年11月29日

災害の場所の風景

殺伐とした光景だった。あたりには、人が一人も見当たらない。ただ、自然の力と人口の力がせめぎあう場所だった。

 台風23号の影響を受けた、京都府北部の宮津市海馬町。新潟の地震と時期が同じであっただけに、報道される回数は少ない。災害地の滝馬に近づくにつれ除々に静けさを増す。
 
 遠くから見れば、山の斜面に、横幅15メートルほどの不自然な川が流れている。しかし、近づいてみると、それは倒された木や、土砂、岩がただ転がっている。ブルーシートが引かれていること、ショベルカーが放置してあることから、後処理はしたのであろうが、それでもなお、自然の力を物語る。

宮津11 宮津8
 
 その、下には平らな土地がある。恐らくそこには、家が建っていたのだろう。異常なほど平らな土地。家が全壊するほどの土石流の恐ろしさと同時に、山の斜面に不自然に家を立てる人間の力にも恐怖を感じた。
宮津9 宮津13

 
そして、その流れをたどると、まだ解体されていない家が数軒ある。土石流が壁を突き破り、一階部分が崩壊している。家には木、砂、石が散乱し、人が住めるような状態ではない。その周囲の家は、みな同じ状況。もはや、個人の手で修復できるレベルではない。こに住む住人たちはどうなったのか。この家は取り壊すことすらしないのか。いやできないのか。そういったことは、本当に伝えられているのか。
宮津12 宮津6

 町を歩いていくと、ようやく人に会えた。この風景を目にし、聞きたいことはたくさんあった。しかし、距離が近づき、表情を見た途端声が出ない。悲しげな表情を見てしまったからだ。町の道路には未だに、泥や砂が散乱し、集めた土砂の山がいたるところにある。
宮津5 宮津4 宮津3

 しばらくし、海馬町を出発する。そこから、車で5分ほどの場所にある「天橋立」では、何事もなかったように、観光客であふれていた。
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2004年11月21日

基地移転

 今日はヒッキーやね。ばあちゃん家行ったくらい。競馬トークして飯食って帰ってきますた。手作りの飯てやっぱりいいね。自分で作らんでも出てくるんやし。
 
 まぁ、それはさておき、後は家帰って新聞ダイジェスト読んだり、色々就職対策してました。新聞社第一志望やし、時事に強くならねばー。

 「基地本土移転について」
 それ自体は、素晴らしい心差しだ。沖縄県民だけに背負わせてきた重荷を解放しようというもの。誰にも反論が出来ないほどの正当性の高さ。
 しかし正当性が高いがゆえに、考えさせられる。なぜ、今なのか?今までなかなか言及できないことに言及する。なかなかの冒険。もしかしたら沖縄県民は、何かのだしに使われている?まぁ県民にとっては、裏の意図は問題ではない。重荷がなくなるなら、間違いなく小泉を支持するだろう。それは知事のコメントにも現れている。
 本土移転。完璧な正当性。しかし完璧だからこそ疑わない訳にはいかない。なぜ、基地を今動かすのか。沖縄の後ろにブッシュの顔が透けて見えてくる。
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2004年11月03日

国旗とか国歌とか

 自称左の奥本君です。右っこばやさんに物申しに来ました(笑)。

 とりあえず簡単に国旗・国歌問題をいうならどっちでも良い。俺は基本的に、愛国心というものには少し抵抗を覚えるタイプやねん。んで国旗・国歌を今強制にしても、自由にしても、いわいる愛国心は生まれない。左の人たちは国旗・国歌にびびってたり、拒絶反応出るけど、びびる必要はないと思う。
 というのも「強制ほどしょぼいものはない」。これが結論。いくら国旗・国歌を強制して、肖像画を飾らせて、パレードとかさせても、表面的愛国心しかないねん。例えばイラク・北朝鮮。表面だけ見れば超怖いけど、フセイン捕まれば喜ぶ人も結構いるし、脱北する人も結構いる。
 やっぱり怖いのは戦時の日本やドイツや、今大統領選やってる国。確かに強制しているように見える一面もある。でもきっと強制しんでも、自発的にやるねん。どこぞの国はテロにあえば、みんな勝手に家の前に国旗を張り出すねん。誰に指示される訳でもなく・・・。きっと戦時中の日本でもそう。終戦間際はしらんけど、のりのりに勝ってるときとかは自発的やったと思う。アジアの盟主として日本頑張るとかまじで思ってたかもしれん。

 んで右の方々から愛国心持つべきやって意見が出てくる。でも何で愛国心が必要かが少しわからん。理由があるなら、現代社会は宗教も地域も家族も自分を意味づけてくれるものじゃなくなりつつある。人は完全な自由の中では生きられないし、自分が何ものでどこの立場にいるかわからないと不安になる。
そこで意味づけるために誕生したのが国というシステム。国なんていうのは自明なものではない。アフリカみたら明らか。誰かの意図が入る。島国である日本でもそう(ここで右はよく怒る)。だって藩の時代は藩が国みたいなもので、日本を意識することはなかった。また満州・グアムとかが日本に入ってた時期もあった。未だに北方領土の位置づけは不明。明らかに作られているもの。
国っていうのは自分を意味づけるために作られた創造の産物。それなら愛す必然性はない。まぁ、愛させる方が簡単ではあると思うけど。でも今の日本では、戦争には控えめで、国を愛することはしないっていうふりして、でも実は超伝統文化があるとか思う俺日本人と思う時点で国の役割(自分を意味づける)は果たしていると思う。
だから教育は、日本の愛国心を奪ったのかもしれない(ほんまかはさておき)。でも、日本人という身体は作り上げた。だからここで愛国心路線を走る目的があんまりわからない(気持ちはわかっても)。
posted by かじゅき at 16:57| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月30日

被害者感情

 なるほど。ばやさんの意見としては、現行の死刑制度に反対とうことやんね??逆にいうと、死刑の制度を変えるなら賛成と。具体的には二点あげてるけど、一点に要約できる。それは現在の死刑制度は、被害者遺族の立場に立っていない。だから被害者遺族のために、執行を早くするべきやってことやんね??

 まず冤罪の話。これはばやさんのいう通りさほど問題ではない。死刑囚の中にもランクがあって冤罪の可能性が匂う人は、死刑執行しないように上から指示が出るみたい。冤罪の可能性がないやついしか結局死刑しにくい環境は整っている。だから冤罪はこの際無視してみる。

 じゃあポイントはやっぱり「被害者遺族の感情」一点やと思う。ここで俺の疑問は「本当に被害者遺族は死刑を望んでるのか」という事。
今、現在の日本のリアリティーでは、被害者遺族は死刑を望まなくてはいけない環境にされている。誰に強制されるでもなく、内側から、それが被害者への最善の供養だと思わされる。もちろん周囲もそれを望む。いや周囲が望ませている。そうすることが被害者遺族の務めだと言わんばかりに。以前にブログに書いた「血の優位」の力が働いているように感じる。
ここで被害者遺族は、へゲモニックな権力によって二重の戦いを強いられる。1つは、誰もが理解する、「家族の死に対する戦い」。悲しみを乗り越えるための戦い。そして2つは、「加害者を殺すための戦い」。つまり死刑のために行動し続けるための戦い。本当に心から2つめの戦いを望んでいるのか。2つ目の戦いによって1つ目の戦いに終止符を打つことができるのか。

2004年の日本では2つめの戦いを強制的に求められる。モブの言葉を借りると、「血の優位」。人々は家族というものを神聖化しすぎる。だから「介護入門」という結構論には矛盾がある本が評価が高かったりもするんやと思う(介護入門好きな人はごめん)。
人々は、絶対家族のために加害者を殺す戦いをしなければならない。「武士道的な心」。相手を殺すことで何かが達成されると考える。それが、1つ目の戦い、つまり被害者感情の解消を成功させると信じられいるように見える。
俺は思う。日本はもっと息苦しい方向に向かっている。国民全体が第二の戦いを認める。その欲望の体系化が「裁判員制度」の誕生。裁判員でなく国民が国民の死を決定する。法に従う裁判官より、情に従う国民に裁かせたいし、裁くべきだという感情が日本にはある。「裁判員制度」の誕生によって、ますます被害者遺族の戦いは激しく推奨されていく。
 俺は被害者のことを考えるからこそ、死刑反対だす。現在の被害者遺族にはヘゲモニックな権力が発動している。
posted by かじゅき at 15:34| 京都 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月27日

死刑制度

 400字レビューでっす。前の「純化」という言葉を分かりやすくしてみた。んで「A」っていう映画みたし、オウムのことも絡めながら書いてみましたでつ。


 人が人を裁く。この不思議な光景は一体何なのだろうか。

 人は、決して仲間を裁くことはない。例えば、親や兄弟。自分の住む地域。そして日本というもの。同じ仲間だという意識がある間は裁くことはない。

 しかし、現実には同じ日本人を裁くことが多々ある。例えば、オウム真理教。同じ日本人にも関わらず、徹底的に裁こうとされる。まるで、日本人ではない、別種の存在として扱うことで。オウムの中には、犯罪を起こしていないものもいることは言うまでもない。しかしそのことに触れることはタブーなのである。

 ここには、敵を作りたいという願望が見られる。分かりやすい敵を作ることで、自分は正当であるということを意識する。分かりやすい敵というもののために犯罪や宗教というものを利用する。実際、犯罪を犯しているかは問題にならない。ただ敵を作りたいのである。

 そういう意味で、死刑という制度は、敵を作り出すのに最も適したシステムである。
posted by かじゅき at 16:15| 京都 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月18日

郵政民営化

 テレビタックルを見てまふ。なあーんかなー。よくわからんなー郵政改革。郵政改革基本的に俺は良いと思ってるんやけど、どうも流れがよくないみたい。

 とりあえず反対派の意見がよくわからん。@特殊法人に金回してるって言っても無駄使いをしてるのは、特殊法人。→じゃあ根元を断てばいーやん。体質がずっとかわらんから民営化なんやろ。Aユニバーサル・サービスについて。これも民営化したら地方が潰れるとか、ぎゃーぎゃー言うてる。でもいまんとこ地方も残すってことになってるならいーやんみたいな。NTTと比べるのはいかがなものなのか。NTTはなくても電話はつながるやん。B年金が先やろって意見。別に順位は必要ない。両方やればいーやん。
 まぁとにかく今日のタックルはよーわからん。大竹・阿川があんだけ片寄るんやーみたいな。

 ってかそもそも@無駄な雇用。民がこんだけリストラされてるんやからやむを得ないやろ。A郵政族。→関係ないやん。Bコスト。国やから赤字じゃんじゃん出せる。赤字について言っても必要なことで逃げる。確かに必要な部分もあるけどいらん部分もあるやろーって。

 高速と違って、一枚クッションがあるから利益が見えにくいけど、根底は一緒やと思うんやけどなー。違うんかもしれんけど。偶然読んだ本に影響されてるだけかもしれんけど。まぁ久しぶりにタックルで気分が↓になってますた。

 
posted by かじゅき at 22:01| 京都 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月25日

世論は独裁者より怖し

 「プロ野球スト中止」。金曜日に各メディアでこの言葉が乱れ飛ぶ。プロ野球選手会と日本プロ野球組織の労使交渉が合意に至った。決定打は12球団維持のための新規参入の促進の合意やった。具体的には@加盟料・参加料の撤廃A新規参入の審査を適正・公平に行い、出来る限り開示するB新規参入を承認した場合、最大限の協力うするCドラフト制度改革などが主な柱。

 この改革自体が正しいか間違っているか、やっぱり今はわからん。結局そもそも近鉄・オリックスの合併問題がことのはじまりやった。つまり球団赤字問題。これについては抜本的改革はなかった。まぁJリーグスタイル(一回集めて、再分配の横並びスタイル)にすることは個人的には無理と思うから、収益のスタイルは変わらんでいいとは思うのですが。(これは頭かたいだけか??)
 問題は抜本的改革があったかどうかというより、世論ががっちり動きすぎて球団赤字問題がぶっとんでもーたってことやと思う。世論にとったら「プロ野球はたくさんいるんだから大丈夫」とかいう。まぁそうかもしれないけど選手の口から「こんなファンがいるって実感できてよかった」とかいう言葉をよく聞くのも事実。つまり今だけファンが増えた。今だけ活動した。選手にとったら「おいおい、こんなにいるんかい。普段は何しとんねん」って思うんちゃうかな。

 今回の問題の決定打は誰か。今までのプロ野球界は独裁者の力に牛耳られてた。それに対し今回は独裁者に選手会が勝った形となった。いや世論が勝ったっていう方が正しいのか。
でも今回の世論は少し考えるべきことかも。だってメディア協力しすぎ。古田利用しすぎ。実際古田がテレビで泣いたとき、俺も「古田。お前はようやっとる。頑張れー」って思いながら一人で半泣きになってたんやけど、改めて振り返るとこれはじめから泣かしにかかってるよな。メディアが。当然、古田及び選手会の純粋な気持ちは非難されるべきでないし、メディアのやり方もそう非難されるべきでないかもしれない。プロ野球界の閉鎖性非難という方向性自体が矛盾に満ちてる訳じゃないから。

でも妙な一丸性が気になったんですよ。ストを7割以上が支持する現状。いや別にストが悪い訳じゃないし、そうするしかなかったんかもしれん。でも世論が勢いづけば今まで一度もなかったことが自然に行われたように見える事実。ここに注目したかったんですよ。みんながきづかない間に前例のない壁をあっさり壊す。これには良い面、悪い面がある。今日の教訓は、「ペンは剣より強し」「世論は独裁者より強し」でなく「ペンは剣より怖し」「世論は独裁者より怖し」って感じ。だって世論やペン(メディア)は、その力を意識されないから。無意識の力。これほど怖いものはない。
 
posted by かじゅき at 11:07| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月24日

「ひきこもり」って言葉の力

 今日はいきなりゼミですた。なかなか夏休み気分を解消させられた感じでっす。大変大変。いやまじ大変。グループ研究ぼつです。お先真っ暗。まあ半分予想はしてたとはいえやっぱり厳しいですなー。んで今日は裏ゼミねたを掲載です。「ひきこもり」とそれを「引き出そう」とすることについて。

 最近「ひきこもり」が増えている。何か激増してる感じ。俺らが小・中学校時代にはクラスに一人いるかいないかって感じやった。そん時は「ひきこもり」ってゆうよりは「不登校」扱いやったと思うけどな。「ひきこもり」って言葉ができて、「ひきこもり」が急増。「不登校」扱い時代とは大きく変わった感じ。これって何なんやろー。

ひきこもり問題を語るときに俺の前提になるんが、ひきこもりは最善の策ではないってこと。なぜかというと消費社会化が進むにつれ、産業形態は第一次産業から第三次産業になってって、人々は身近な人だけで生活が完結することが難しくなる。おばあちゃんの時代はそれが可能やった。この変化に伴い、人は社会と関わり生活をおくることを余儀なくされるようになる。つまり社会と関わることなしに生活することは困難といえるようになる。

 そして社会の中で、次第に社会に出ないものが悪、社会に出るものが善という価値観が出てくることになる。漠然とやけど。更にそれを強化するように、医学が社会に出ない者に対しあたかも病理のように「ひきこもり」というように名付ける。そして社会全体が「ひきこもる」者に対して社会に「引き出す」という行為に走るようになる。
 
「ひきこもる」当事者は、この「引き出す」圧力に困惑する。社会は「引き出す」ことばかりに夢中になり、「引き出す」理由や目的が当事者に伝わらない。もちろん周りの人間が社会に「引き出そう」としてることはわかるんやけど、理由や目的がわからん。また「引き出す」本人たちも理由や目的を認識してないことが多いように感じる。例えば、仕事場や学校に引き出される当事者は、理由や目的も知らされないままとりあえず引き出される。「引き出す」側もとりあえず引き出してみる。なぜなら「引き出す」ことが出来ないことは、社会的に見ると未熟や恥と見なされるという圧力がかかるからである。そう「引き出す」側も一種の被害者なんかもしれない。当事者も引き出す側も圧力にさらされる。このような関係が現状なんかな。
  
現在の「ひきこもり」問題の拡大は、社会が「引き出す」こと、つまり正常化することに夢中になっていることと関連する。社会に出ないことが「ひきこもり」と医学に名指しされた今「ひきこもり」の概念から逃れることは難しい。「そこで目指すべきは、「ひきこもり」という言葉を、「正常化」から「認知」の流れにすることである。医学や社会が無理やり治すことより、それを認め本人から社会復帰を望むことが理想といえる。飯さえ食えれば「ひきこもり」でもいーんかもやけど、簡単にそうもいえないから。「引き出し」圧力もなくなり当事者も引き出す側も楽になれるのかもしれない。漠然ですがこのあたりで。

posted by かじゅき at 22:44| 京都 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月23日

平等

産業化の進展にともなって、結果の平等、機会の平等は日本においてどのように変化してきたか。まず産業化にともない原理が転換したことに注目する。以前はマルクス主義的な「属性原理」が働いていた。つまり本人の努力、能力とは関係なく、生まれて以降の人生で変更できない属性を基礎として、人々を各種の社会的位置へと配分する。それから「業績原理」に転換した。つまり本人が何をどれだけ達成したのか貢献度に応じて、人々を各種の社会的な位置へと配分する。産業化にともない、まず原理が変化した。
その上でまず結果の平等をみる。結果の平等は一部実現された。本来ならば産業化と結果の平等は相成れないものとされていた。つまり産業化とは自由競争であり、効率の達成であり、勝者と敗者の差が歴然と出ることをやむなしとする方法である。しかし日本において産業化が進んだにも関わらず、結果の平等は促進した。日本で高学歴化が進むにつれ、ホワイトカラーが増加した。それにたいしてブルーカラーが減少した。それにより相対的にホワイトカラーの賃金が下がり、ブルーカラーの賃金がアップした。あくまで相対的である点から結果の平等の一部達成とした。
次に機会の平等をみる。機会の平等とは出自の影響が小さいことである。つまり親の地位、財産などによって生き方(職業・学歴)などが決定しないということである。これも産業化にともない、ある程度達成してきたといえる。それは身分制やカースト制に比べると明らかに機会の平等は達成されている。更に教育・職業の面でも自由度が高くなる。それに見合った能力・知があれば選択できる。つまり本人の力が重要視され、親の力が相対的に下がる。よって日本において結果の平等・機会の平等は昔に比べると達成されてきているといえる。

では今後の10年間にこれはどのように変化していくのだろうか。まずは結果の平等をみる。日本は工場をどんどん海外に求めるような流れがある。つまりブルーカラーを海外に任せるという選択肢をとった。これによりいったんは相対的に賃金のあがった国内ブルーカラーの地位は下がる。結果の平等の衰退の兆しである。更に、ホワイトカラー間でも上級と下級では差が広がる兆しはある。それはここ最近政府が必死に成立させた、年金制度と保険制度である。更には住民税である。小泉首相の「国民に痛みを・・・・」ともっともらしい言葉がメディアに充満する。国民も不景気の閉塞感からか見栄えの良い言葉に食いつく。ここ数年の小泉人気はこの閉塞感にささえられる。しかしここでいう国民とは何か。私の見解では上級ホワイトカラー以外の人々をさす。国民負担という怪しい負担。何で平等のために住民税が一律になるのか。上級ホワイトカラーの特権を守るために国民は負担を背負うのか。現在メディアは反抗しているが後の祭りであった。国民に火がついた時にはすでに成立。メディアが残したものは形の見えない不安だけである。抽象的なだけ


にたちが悪い。国民の心身を目に見えない不安が襲う。さまざまな権力(行政・立法・マスコミ、、、)による不安のあおり、これにより人々は自分の身を守るために平等を捨てるかもしれない。自分の身は自分で守る信念。個人主義と自己責任の大流行。それ以外の選択肢はなくなってくる。国・政府が何のために存在するのかわからなくなる状況である。共同体の信頼関係は失われ、他者を思う気持ちはなくなるだろう。徹底的な競争社会にシフトする。終身雇用制が見直され始めた時期であったが、また自由競争に舞い戻る。これから10年で確実に格差の兆しが見え、そして50年後には結果の平等は崩壊しているのではないか。
次に機会の平等について。これも衰退するのではないかという不安がある。もちろん相対的なものであって、身分制やカースト制のような話ではない。階級や身分などという顕在的なものでなく、階層という潜在的なものであると思う。つまりあからさまな形でなく、ひっそりと機会の平等を脅かす。もちろんここでいう階層は移動可能なものではあるが、移動に制限がかかっていくのではないか。1つに香山りかという精神科医がいう「エディプスコンプレックスの不成立」。以前はエディプスコンプレックスが成立しており、父親に対する反発が確かにあった。二世と呼ばれることに抵抗と怒りを感じる人が多かった。しかし最近はどうだろうか。親のこねを公然と使用する人は確実に増加している。この現実は何を示すか。それは階層の石化である。つまり階層間の移動が難しくなる。にも関わらず一般レベルではみんなスタート地点は同じという言説が力を持つ。スタートで不利を受けている人たちの言い訳の余地がなくなる。成功しなかった人たちに対し、「あなたの努力不足ですよ」という言葉が正当性を持つ。機会の平等でも形のない不安がつきまとう。人々はやはり戦いにかりだされる。目に見えないところで確実に階層化が進んでいくのだろうか。二世議員、二世タレント、二世○○・・・・。機会の平等は相対的に衰退するのではないか。
結果の平等・機会の平等に対して悲観的な見方を提示した。これはあまりにも極論かもしれない。この夏の参院選で軌道が変わる可能性もあるし、政権が変わらなくても世論、メディアが徹底的に抗戦するかもしれない。さらに香山りかの見方もどこまで支持できるかはわからない。景気によって流動的に動くものなのかもしれない。しかし悲観的にならざるを得ない状況もある程度そろっている。よって私は10年後の日本は、結果の平等・機会の平等は相対的に低下すると考える。
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2004年08月14日

監視社会

 ちっと前の話やけど、待ち合わせ時間より少し早く到着。暇やし普段気にしないけど周りをきょろきょろ。「げっ!!」最近ってこんないっぱい監視カメラあるんやって改めて確認って感じやった。むかついたのでカメラを激写してやりました。まぁ死角からですが(^^;)
監視社会2
監視社会1
近年監視カメラが増加している。それには大きく3つの問題がある。
1つは権力が入る可能性である。現在は深い意図もなく監視しているだけかもしれない。監視にはまだ抵抗感はあるかもしれない。しかし事件が増えることで監視カメラを権力が利用することになるかもしれない。監視の正当性が出るからである。そしてカメラが犯罪を起こす個人を特定する道具になっていく。そうなることで大衆はカメラの向こうにある権力のまなざしを内在化する。大衆は外的権力でなく、内在化した権力に従う。内在化された権力に従うことは大衆の抵抗の可能性を減らす。社会の多様性がなくなる不安がある。フーコーの監獄の誕生せいう「パノプティコン」的。
 2つは大衆心理を不安にする。街のいたる所にカメラが存在する。それが大衆の不安をあおる。実際に犯罪が減ってもこの不安がなくなることはない。監視カメラの存在が、危険をにおわせ、安心するなという記号になる。そして人々は自分以外の存在を常に疑うことになる。都市の存立条件である、匿名性の人物への信頼性がなくなる。
 3つにプライバシーの問題。常に行動が監視される。それにより地下文化はますます地下にもぐることになる。一般文化と地下文化の境界がくっきり分かれてしまう。そして注意すべきである地下文化には目が届かなくなる。
 よって犯罪がたとえ減ったとしても、監視カメラを大量に設置し、権力が監視することには反対である。
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2004年08月02日

アジアカップ

『愛国心作動装置』

 先日のサッカー日中戦から、再び中国の「反日感情」というものが大きく扱われるようになった。メディアは中国人の世代を問わず、「反日感情」について戦争責任などで説明することが多い。しかしそれに対し疑問を抱く。
 もちろん戦争を体験した世代は、戦争の痛々しい体験から「反日感情」を抱く人がほとんどだと思う。そしてその結果として、時として愛国心と結びつく。しかしスタジアムのほとんどをしめる戦争未体験世代はどうだろうか。彼らは愛国心が先である。愛国心を味わうために「反日感情」という中国において、いや世界中において否定のしようもない考えを利用してはいるのではないだろうか。誰にも否定しようのない事実を利用することで愛国心または愛国心ごっこをする。
 もちろんそれは中国だけにあてはまらない。日本においては愛国心を味わうために北朝鮮拉致事件を利用していなかったか。韓国においては愛国心を味わうために日韓Wカップを利用してはいないだろうか。アメリカにおいてのテロ後の行動はどうだろうか。そして全ての国において愛国心を味わうために、政治やスポーツを利用していないだろうか。
 よって今回の日中関係において天皇が謝罪しようが、首相が靖国参拝をやめようが、尖閣諸島問題を解決しようが「反日感情」はおさまらない。きっとさまざまな隙間をぬって「反日感情」は継続されるだろう。しかしこの現象は特殊なことではない。中国においてたまたま日本が扱いやすかっただけである。世界中で愛国心を保持する愛国心作動装置を、政治も国民も必死になって探している。それほど愛国心は想像によるところが大きい。
 もし中国において「反日感情」が減少するとすれば、中国が日本と同等もしくはそれ以上に成長し、「反日感情」の正当性が減少したとき、もしくは中国が「反日感情」に変わる新たな愛国心作動装置を発見したしたときではないだろうか。
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2004年07月15日

女子アナ

 7月13日の午後7時から女子アナの知能を争う番組があった。局はもちろんフジで。番組の趣旨は爆笑問題が司会で女子アナにクイズに答えさせて、ばかにする。女子アナはいかにぼけるかという芸人並みの要求がされる。見てて半分可愛そうな気持ちと、半分中野さん可愛いって気持ちが交錯(笑)
 女子アナっていかに可愛くあほになれるかを要求される。ちょっと前に、大橋まきっていう人気あったけど結婚して退社した女子アナがいる。最近偶然彼女のインタビューを見た。内容は「結婚で退社したのは表向きの理由。ほんとはちゃんと仕事がしたくてテレビ局に入社したのに、回ってくる仕事はアホキャラを求められる仕事ばかり。そのつらさに耐えられなかった」と言う。
 
 このように役割を求められることは苦痛を伴うこともしばしばある。そしてそれは職業だけでなくさまざまな場面で要求される。例えば、親、子、男、女など。主体を確立した人々はその役割を演じようとする。しかしその規範・道徳・合理性との不一致が精神病を招く。つまり体がそのような外的要因を拒絶する。

 プラトンをはじめとする哲学者の中では身体が牢獄であり、その牢獄から魂を解放するというテーゼがあった。つまり単純化すると身体=悪、魂=善という図式。身体が無限なる魂を束縛する。しかし現在の現状を見るとこのテーゼは間違いである。
この魂ということばは主体に置き換えても良いかもしれない。主体が確立されてしまった現在では主体が牢獄であり、その牢獄から身体を解放することが重要となる。確立された主体によって身体は空間・時間ともに規律化される。
 そうやって規律を求める主体に対しさまざまな形で身体が限界を見せている。異性愛主義に対して性同一性障害、家族の神聖化に対してDV、さらにはうつ、AC、多重人格などさまざまな形で身体が氾濫をおこす。
 解決方はまだ見つかっていない。少なくとも精神医学は根本的解決にはならない。かといって昔に戻れるわけでもない。この主体というもの確立した社会を生きる方法を模索しなければならない。その方法の1つとしてコスプレ的生き方を夏休みの課題にしたい。
posted by かじゅき at 16:52| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月09日

ガンジーの非暴力の精神

 ガンジーの非暴力の話はみんな知っていると思う。どんな暴力にも屈しない。非暴力・非服従の精神である。ガンジーのこのような精神について述べる。

 <モラル>を身につけるとはどういうことか。<モラル>を身につける=ただ一般規範としての道徳的行動をとることではない。つまり、ただ暴力をしない、窃盗をしない、レイプをしないということではない。もちろんそれらの行動は<モラル>を身につける前提条件ではあるが、それだけでは不十分である。
 <モラル>を身につけるのに必要な条件は、行動に対する姿勢である。たとえ道徳的行動をとっても、姿勢が計算的・取引的であっては<モラル>を身につけたことにならない。それは他者を疑い、自己本位になり、常に不安だけが残るからである。大事なことは、相手を対等とみなし、時には不利益をもたらすかもしれない相手を受け入れる勇気を持ち、行動することである。つまり他者を信じ、自己本位にならないこと。ガンディのいう非暴力の精神は、<モラル>を身につけるという意味で偉大なものである。
 ガンディは<モラル>を共有できないときの問題解決策として国際的な調停にゆだねることも提示する。しかしあくまで<モラル>の共有を目指す。人類が<モラル>を共有することで、不安はなくなり、どんな危険にさらされることもなくなるからである。<モラル>とは、それだけで良い人間社会を成立させるものである。
 しかし現在の世界で<モラル>は共有されているだろうか。法が社会を支配するようになり、表面的な道徳的行動をとることは増えたかもしれない。しかし、現状はどの国も他国に不安をおぼえ、武力も持ち、時には行使し、さらに国連も機能していない状態である。暴力を振るわれた方も必死に抵抗をする。これでは暴力・非服従である。結局ガンディが提示する<モラル>は共有されず、問題解決法である国際的調停機関も機能していない。国連が機能しない現在、もはや非暴力の精神の声は届かない。道徳的行為は共有しても、遠のく<モラル>の共有。法が支配し、道徳的行為が先行する社会において、このズレを修正するべき方法は存在するのであろうか。
 かといって非暴力・非服従が達成されるのは非常に難しい話であることも確かである点は重要である。


 
posted by かじゅき at 23:09| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月20日

無限の欲望

資本主義(高度消費社会)と金銭の話の続き。前回は@貨幣の価値について述べた。今回はA際限のない欲望について述べる。金銭と消費の関係は大衆に際限の欲望をもたらせる。ではなぜそのような状況になるのであろうか。
まず人間中心主義という批判もあるかもしれないが、動物の欲望はある程度有限である。それに対して人間の幸福、快楽、贅沢に対する欲望は際限がなくなっている。ある程度社会が安定し、道徳や規範というものが機能している時代においては欲望に圧力がかかる。この圧力のもとでは、個人は自身の生活における、自身の欲望の限界点をそれとなく感じ、それ以上の欲望をいだかない。その場合、欲望は有限的かもしれない。
しかし社会が混乱しだすと次第に道徳や規範というものが役割を果たさなくなる。このとき欲望はもはや圧力をかけられるものではなくなる。際限のない欲望はもはやとまることがない。このような行動を秩序づける共通価値・道徳が失われて無規範と混乱が支配的になることをアノミー状態という。
このようなアノミー状態は経済的な欲求によってもたらされやすい。まさに資本主義(高度消費社会)によってアノミー状態は促進されたといえるだろう。その中で人々は欲望がさらなる欲望をもたらす状況になる。前回述べたように、商品・サービス・教養などを通してより高いランクを目指す。そのランクに達したらまた上のランクへと際限のない欲望はもはや止まらない。例えば体重2キロ減らしたらまた2キロ。1万のものを買えば次は2万など。ランクを落とすことは敗北ぽく認知され人々は自分から上を目指すようになる。
このような状況は従来の意味でいえば規範・道徳は弱まっているといえる。しかしもっとさりげない形の規範・道徳として目標を持ち、上を目指せという規範が出来上がる。我々はそんなアノミー状態に陥りながら、今日もまたワンランク上の自分を目指しながら日々を生きている。
[参考]ディルケイム『自殺論』
posted by かじゅき at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月18日

資本主義と消費

 前回の「アメリカ社会」で述べた資本主義社会(大量消費社会)が金銭に価値をおくということについてもう少し話をしよう。金銭に価値をおくことは@金銭を持つことが価値となるA際限のない欲望のシステムを作ると述べた。ここでは@金銭を持つことが価値となるについて話そう。
 まず誤解を解かなければならない。金銭を持つということは誰にもきずかれることなくこっそり金銭を持つこととは違う。このタイプの人間はある意味資本主義社会を降りている。金銭を自慢する訳でもなく、消費に使う訳でもない。つまり際限のない欲望を持っていないタイプといえる。かといって持っている金銭をただ自慢することも少し違う。このタイプは金銭を貯めるという際限のない欲望は持つが、他者と差異化ははかれない。そのことに耐え切れるというのもまた資本主義的とは少し違う。ここでいう資本主義的人間はさまざまな消費を通して、社会的差異(社会による差異の価値)を利用し、アイデンティティー(自分らしさ)を形成する。
 このことは例を挙げればきりがないがいくつかをあげる。まずは@ブランド、家、車などの商品を通して社会的差異を得る。A留学、ボランティアなどの経験を通して社会的差異を得る。Bジム・エステなどの身体改造を通してC学校、資格、英会話などの教養を通してD親や子に金銭を使うという他者投資を通して社会的差異を得る。
 これらのごくごくありふれた消費というものを通して社会的差異を得て、アイデンティティーを確立ということは説明できた。しかしこれまでの説明だと「適度な金銭があれば良いのでは?」という質問に言葉を失う。
 ここで社会的差異と金銭を結びつけるものが@商品の秩序付けである。これは誰かが意図的に順位をつけたりする類のものではない。しかしながら多くの大衆がそれを認知する。エルメス>ユニクロ、ベンツ>オデッセイ、美容院>散髪屋などなど。誰が決めたわけではないが、何となくみんなが知っている。そしてその上位に来るものを得るためには高い金銭を必要とする。そしてAの希少性。これは@を保護する役割である。いくらベンツがオデッセイより高かろうが、エルメスがユニクロより高かろうが、市場に出回りすぎては社会的差異を保てない。希少性を保つことで社会的差異を保ち、かつ金銭の高さを保つ。
 われわれは資本主義社会が用意する@商品の秩序付けA希少性などをどんどん内面化する。常に情報を受けながら、発信する。そして社会全体によって作られたシステムの最上位を手に入れることは資本主義社会を生きるものなら誰しもうらやましく思う。これは最高の社会的差異である。その社会的差異を手に入れるためには金銭が必要となる。そこで人々は自らその金銭に価値を与える社会を生きていくことになる。
 次回は今回述べなかったA際限のない欲望が引き起こる社会状況について述べたいと思う。
[参考]マートン『社会理論と社会構造』、石井淳蔵『ブランドー   価値の創造』
posted by かじゅき at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月16日

アメリカ社会の構造

初論文。初めやから固めなことからいきたいと思います。
 日本はどうやら多国籍軍に参加するようだ。もうアメリカ以外見えていない感じの近年。ここで『アメリカってほんまおかしいよな?』って言うのはだれでもできる。じゃなぜアメリカはおかしいのか?ブッシュがおかしいのか?それならアメリカ国民の態度が説明できない。では国民性なのか?人種が多いアメリカでは生得的なものになすりつけることはできない。ここで一つ浮かびあがるのはアメリカ国民というものを作り上げる社会というもの。そこに注目することができる。
 何をするときでも目的と手段というものがある。その目的と手段がバランスよく拮抗しているときある程度社会は安定するといえる。しかしそのバランスが崩れると社会は不安定になる。まず目的>手段になったとき。目的ばかりが注目されることになり、手段は問われなくなる。その逆に手段>目的になったとき。目的は忘れ去られ、手段に同調することだけが目的になる。これらはスポーツにも応用できる。目的>手段は勝負に徹底的にこだわる。いわば結果が全てである。逆に手段>目的は勝負を度外視し自分たちのやりたいプレーに貫徹する。両者は極論ではあるのであるがスポーツとして成立しないことがわかる。手段と目的が拮抗して初めて安定したゲームが存在する。
 話をアメリカに戻そう。アメリカはどのタイプであろうか。無論目的>手段の国である。国内を見て手っ取り早くいうとアメリカの、いや資本主義国の目標は金銭である。程度の差はあれ事実である。金銭というのは実によくできたものである。一つにそれを持つこと自体が価値となり神聖化される。二つに終点がない。際限なく上を目指すシステムになる。社会において程度は異なれど、アメリカはこの金銭的成功を何にもましての最高価値にしているといえる。
 そういう社会は国民に、「機械の平等」をうたい、常に「金銭的成功」を目指すことを命じ、目的を下げることに対して「失敗の烙印」を押す。そしてそれはもはや国民の間にしっかり内面化される。「自分たちは平等で、成功することを目指し続けなければならない」と。「金銭的成功」という目標が前面に押し出される、その一方で手段は無視される。どんな手段を利用しても良いのである。結果的に勝利という目標を達成しさえすれば・・。成功すれば手段も成功である、逆に失敗すれば手段は失敗である。
 イラク問題に戻ろう。みなさんはどう考えますか?私にはアメリカは目標>手段の究極系に見える。途中経過が何であれアメリカが世界の頂点でいられる間、手段は全て正しいのである。ベトナム、湾岸、アフガニスタン、イラクそしてそれ以外の小さな戦争もそうである。目的と手段のバランスが拮抗しない国アメリカに日本はすりよっている。アメリカとの適度な距離をとることは可能なのだろうか。
[参考]マートン『社会理論と社会構造』
posted by かじゅき at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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