2004年10月14日

『新しい時代の夜明け』

 コスプレは、様々な“衣装”を身に着けるだけでなく、そこに造りだされる“空間”を受け入れることによって「変身」を可能にさせていた。ある時はメイド、ある時はガンダムのラクス、またある時はセクシーな衣装に身を纏った誰か。それは見た目だけでなく思考までもを“今の自分”から“違う自分”に変身させてくれる。
 しかし、メトロ大学のK´さんやコミケで出会った本城さんは、それでもコスプレに“自分らしさ”を求めてしまった。いや、求めざるをえなかったのかもしれない。それはちょうど私たちが「イメチェン」と呼ぶ、髪型を変えたり、服装を変えたりする行為に似ている。変身した瞬間は、”違う自分”になれる。しかし、"違う自分”に重心を置き始めた途端、それは”今の自分”になり、また新しい”自分らしさ”を求めることになる。
 それが、コスプレが可能にさせてくれる「変身」の限界なのだろうか。いや、私たちはそうは思わない。”違う自分”になりきるレイヤーやメイド喫茶で働く女性。性に対する意識を変える、コスプレ焼肉で働く少女たちを見ていると、新しい時代の夜明け前を感じさせずにはいられないのだった。
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2004年10月11日

『メトロ大学』

 「メトロ大学開講」
8月某日、私たちは京都のとあるライブハウスに出かけた。今夜、ここで「コスプレ」についての講演会が開かれるという。このライブハウスは、毎週様々な分野の人々を呼び、まるで大学のように講座を展開している。普段はライブハウスなのに、中は暗くてひっそりとしている。ドキドキしながら中に入ると、そこには小さな舞台を前にして椅子がずらっと並んでいた。その光景に多少圧倒されながらも、私たちは迷わず一番前の席を選んだ。すると店の奥のほうがなにやら奇妙な光景だった。コスプレの衣裳に身を包んだ人々が、まだ始まる前だというのに楽しげにアルコールをあおっている。メイドのような服に身を包んだ女の子と、なにかのキャラクターを意識したであろう男の戦闘服…。そしてよくわからないアニメのTシャツの男が二人。皆、一様に異様な雰囲気だったが、どうやら彼らが今夜の主催者であるらしい。そう、彼らこそ今夜の主役であり、そして私たちの講師なのである。
 「えー、では少々時間はずれ込みましたが、これよりメトロ大学“コスプレ講座”、始めていきたいと思います!まず、自己紹介から。私、コスプレ専門店の元店長のもりもりです。どうぞ、本日はよろしくお願いします!」最初に舞台の袖から飛び出してきたのは、小太りで明るいかんじの、俗にいう“今ふう”のオジサマ。アニメのキャラのTシャツさえ着ているものの、聞き取りやすいテンポのある喋りかたでオタク特有の粘っこさはない。「元コスプレ専門店の店長」という言葉と目の前の彼に多少ギャップを感じてしまう。次に、“今ふう”オジサマこともりもりに紹介されて出てきたのは先ほど異様な格好をしていた男である。すらっと背は高く、長めの髪に整った顔立ち。彼の名前はK´(Kダッシュ)。自称レイヤード・日本代表である。そして彼の衣裳は青のマントに白の縁取りの戦闘服。“鋼の錬金術師のイケメンキャラ”の衣裳だという。もりもりの店で買ったとのことで、その衣裳代五万円。その衣裳はキャラの特許をとったロゴ入りの本物の衣裳だそうで、その稀少性からそれくらいの金額はくだらないらしい。はっきり言ってこの手の衣裳は人気のアニメということもあり、似せて作ったものは安くていくらでもある。しかし、あくまで本物にこだわる。そのこだわりと惜しまないお金の使い方に、彼のコスプレに対する熱い思いが伝わってくる。
 *前半は描写やし、量で問題でたら減らすのみ。訂正は特になしです。

  「コスプレの始まり」
「みなさん、こんばんは。K´(Kダッシュ)です。まずはコスプレの歴史について話を進めていきたいと思います!」こう前置きして彼は黒板を使って、非常に興味深い話を始めた。まず、コスプレは二つの意味を持っていたこと。一つ目はおたく文化から派生した趣味、もう一つは社会風俗から派生した女性がするサービスのことである。今日話す内容は、明らかに前者である。まず、コスプレはいつくらいから始まったのか。
「日本には、“オタク”と呼ばれる人種が多いですよね。それは日本の文化においてアニメや漫画が海外に比べてかなり発達していたからなんです。日本では、アニメや漫画はどんどん多様化してきています。そういったこともあり、次第にアニメのキャラクターの格好をする人が出てきた。最初はやっぱり、アニメや漫画にはまってその中に出てくるキャラクターに対する憧れからやり始めるんですよ。僕もそうでした。コスプレイヤー同士がお互いに好きな漫画やアニメを共通の話題にすることで、交流が深まっていったんです」彼はここまで一気にまくし立てた。日本の文化に誇りを持っているのが伝わってくる。1994年頃からコスプレは繁栄期を迎える。そして、コスプレブームはあるモノの普及がきっかけでまた風向きが変わったという。
 「1995〜98年は、コスプレの商業化が始まって、消費概念が拡大していくんです。大体、このあたりから撮影重視のイベントとかが増加してきてコスプレイヤー同士の一体感がなくなってくるんですよね。それはなんでかというと、1998年頃からパソコンの普及が大きいんです。今までとは違ってパソコンの普及で、そのコスプレしてる写真を見て、単純に衣裳がかわいいからとかかっこいいからやるって人も増えてきた。いわゆるブームってやつです。まさにいろんな人がコスプレを気軽にやり始めたんですよ」
彼はそう言うと、ふんと鼻で笑った。その顔は興味本位でコスプレする奴は目障りだ、とでも言いたげだった。彼は言うまでもなく、何年もレイヤーをやり続けているのである。

*下の2行は、モダン系批判をできてるいい文章と思う。
*日本の文化に誇りを持っているのが伝わってくる。ってのを加えた。別にいらんねんけど、いかに変身より知識などに重心を置き始めてるかを表現したい。

  「コスプレ界変動〜共通の世界観の喪失〜」
 このことからわかることがある。それはまさにレイヤー同士の共通の世界観の喪失ではないだろうか。一方は、自分がしているキャラクターのファンであり、もちろんその漫画のストーリーも完璧にわかる。しかし一方で、自分がしているキャラがなんのアニメかさえわからずに、ただその見た目に惹かれてコスプレをする…。彼らの中で達成感や仲間意識はもはや生まれないだろう。いうなれば、最初は一通りしかなかったレイヤーのカタチが分裂したともいうべきなのだろうか。そうなればK’さんのようにコスプレやキャラクターに思い入れがある人は、ますますオリジナルや知識に固執し始める。どうやらコスプレ界に変動が起きていたようだ。     
 そして、さらにK´さんは重要なことを教えてくれた。「今、レイヤーのなかで主流となっているのがコスネームをつけることなんです。彼らはコスネームを作ることによって、『コスプレをする自分』と『コスネームを持つ自分』という二重のロールプレイングをしていることになるんです」コスネーム。この言葉で、コミケ会場でインタビューした本城貴嶺さんを思い出した。彼女もまた、“コスネーム”を持つレイヤーの一人だった。そして彼女はうまく“自分”と“コスプレイヤーとしての自分”と”キャラクターになるコスプレイヤーとしての自分”を使い分けていた。変身の上の変身。それがまさに二重のロールプレイングをするということなのだろう。
そして最後に、自称・レイヤード日本代表のK´さんはこう言った。
「レイヤードとは、『重なった状態』という意味で、私の造語です。ある個人が自らの意思により『衣裳』と『キャラクター』に重なり、全く別の新しい存在になった状態の個体を指すのです。コスプレはまさに、キャラクターと、個人と、衣裳が合わさり『レイヤード』となる、三位一体の技なのです・・」メトロ大学は静かに幕を閉じた。

*二重のロープレの認識が少し違ったし、俺の解釈を書いてみた。
*あくまで俺はK’は近代的と思ってる。だから一文挿入した。

「若者を魅了するコスプレ」
 コスプレをすることは、まさに違う自分になることである。それは見た目(衣装)だけでなく、思考(キャラクター)も、違う自分になりきる。これはK´さんが話すコミケのコスプレに限る話ではない。私たちが取材した、コスプレ焼肉やメイド喫茶にも同じことが言えるだろう。違う自分に変身する。そのために衣装や空間は、変身を手助けする。
私たちは普段髪型を変えたり、服装を変えたり、ちょっとした“変身”を楽しんでいる。その根底には、違う自分になりたいと欲望が潜んでいる。潜在的に変身願望をもつ、今日の若者たちにとって、見た目だけでなく、思考をも変身できるという魅力がコスプレへ走らせているのかもしれない。

*個人主義は抜いてみた。論っぽく見えるから。
*方向性はこんな感じでいいと思う。書き方で悩む。
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2004年10月10日

『コミケ』10/10

 
コミケに熱狂
まだ七月半ばだというのに、夏本番の強い日差し。照り返す太陽がまぶしい。目の前にはすでに一糸乱れぬ、長蛇の列が出来ている。ここは南大阪のじばしんイベントホールである。今日はここを会場としてコミケが開催されるのだ。私たちは戸惑いながらもその後に続く。まわりを見渡すと、みんな見た目こそ違うものの、どこかしら似たような雰囲気が漂う。手には大きい荷物とそれぞれパンフレットを持ち、10時に開くはずのドアを今か今かと見つめている。
 10時きっかりにドアが開いた。会場の中に入ると、コミケらしくすでに同人誌の販売やアニメのキャラクターの手作りグッズなどが動線の両側で所狭しと販売されている。そうこうしている間に、会場はあっという間に人がいっぱいになった。いつの間にか、レイヤーたちがどんどん増えてきている。今回は、主にジャンプのアニメがメインらしく、レイヤーには「テニスの王子様」、「鋼の錬金術師」、「NARUTO」のコスプレが多い。しかし、それ以外にも色々いる。ハリーポッターコスプレの「ポッタリアン」や、天使に、ガンダムなどである。

数時間の別世界
その中で、ひときわ目立っている女の子が目に止まった。一見、モデルと見間違うくらいの細くて長い足が鮮やかな水色のミニスカートから伸びている。上に羽織った長いオレンジのひらひら上着が、スレンダーな体型を強調している。彼女のまわりには、不思議な雰囲気が漂っていた。
彼女はとても知り合いが多く、歩くたびに声をかけたり、かけられたりしている。これが本城貴嶺さん(仮名)の第一印象である。彼女は若干18歳。その年齢には似つかわしくない、大人びた顔と、はきはきした喋り方。

なぜ、彼女はコスプレをするのだろうか。「家がコスプレ用の服を作っているっていう影響もあるけど、やっぱり自分の趣味かな。ちなみに今日のコンセプトはガンダムのラクスなんです」。彼女の家は、「えんじぇる★も〜ど」というコスプレ制作のお店を出していて、主に通販で売り出しているという。彼女が堂々と会場内を闊歩するわけは、その着ている商品の宣伝のためでもある。
 しかし彼女がコスプレをするのは、宣伝だけのためではない。「やっぱりコスプレをやるのには、違う自分になれるっていう楽しみがあります。毎回キャラクターを変えるたびに、衣裳も変わるし、新しい自分になれる感があって…」。それは今の自分に満足していないということなのだろうか。常に求める違う自分や新しい自分。その裏側には、現代社会への不満や、自己に対する不満があるのでは?
「そんな大袈裟なもんじゃないですよ。ただ楽しいじゃないですか。その数時間だけは現実とは違う世界にいて、いろんなキャラクターの人と喋って盛り上がるのって。それが終われば衣裳も脱いでまたいつもの自分に戻るんですけどね」カラカラと笑いながら、喋るその様子は、どこかさっぱりしていて割り切っている感じがした。
 それにしても会場には女性が多い。8割以上は女性である。いわゆるカメコという存在はほとんど見当たらない。コミケには、コスプレ焼肉やメイド喫茶のような、男性の視線はない。なぜなのかを尋ねると、「そういう風に見る人は嫌がられるんですよ。いやらしい目で見られるのがいや。ナンパならよそでやれとって感じです。女としてほめられるより、衣装とかキャラを褒められる方が嬉しいんですよ」と言う。たまに見る、露出の多いコスプレは?「なりたいキャラクターが偶然露出が多いだけですよ。男性が多そうな会場では着ないようにしてます」。

素の自分じゃおもしろくない
それにしても彼女は、うまく“自分”というものと“コスプレイヤーとしての自分”を使い分けている。例えば彼女の名前、これはもちろん本名ではない。コスプレイヤーならほぼ全員が持っている、この世界での“コスネーム”なのだという。本城貴嶺として、そのキャラクターになりきることで匿名の世界でめいっぱい楽しむのだ。ただコスプレをするのではなく、そのキャラクターになりきることはそんなに重要なことなのだろうか。
「うーん、重要というか・・せっかく何かのキャラクターの衣裳を着るのに素の自分じゃおかしいし、つまんないでしょ。でも会場内でずっとそのキャラを維持するの、なかなか難しいからみんな一番なりきるのって、やっぱり撮影のときじゃないですかね」。この一言で、会場内で見かけたさまざまな風景に対する違和感が一気に解消された気がした。
そう、コスプレイヤーの人々の多くは“撮影”を目的として足を運んでいる。あちこちで見られるフラッシュの嵐。そんなとき、撮られる側のレイヤーたちを見てみると、決まってなにかのポーズを作る。普通のピースはまずあり得ない。必ず自分がしているそのキャラクターを端的に表すことのできるポーズを作るのである。この貴嶺さんも例外ではない。何度か撮影に応じてくれたとき、決まって色々ポーズをつけてくれる。そこには照れなど生じない。カメラに撮られる瞬間、もう“自分”ではなく“本城貴嶺”としてそのキャラクターになっているからである。しかし、それは会場内だけに限られるという。会場の外でまで“コスプレ”をするのはルール違反。それはコスプレイヤーたちの間で暗黙の了解なのだという。

被るキャラクター
 更に会場内の、一人一人を観察すると、ある面白いことに気が付いた。彼らには法則がある。それは仲間を通じて、その作品を完成させようとすることである。その中で彼らにはキャラクターの設定があり、それぞれがキャラクターになりきり、作品を楽しむ。しかし、当然ながら人気のあるキャラクターなら必然的に他の人と被ることもあるだろう。
 「確かに、レアキャラとかじゃない限り、メジャーなアニメはキャラが被りがちですよね。だからみんな最近アレンジするんです。ただし、あくまでもそのキャラの特徴とかは変えないんです。微妙に色を変えたり模様を変えたり。自分のオリジナルでそのキャラを表現するんですよ」。しかしこのアレンジというものには、現代社会に充満する「個性主義」を感じずにはいられない。人と同じでは嫌。自分オリジナルを求める傾向である。もちろんレイヤーの全てがそうではない。しかし本来キャラになりきる没個性のコミケ社会にも、個性主義が侵入し始めているのかもしれない。

コスプレはどんどん広がる
最後に彼女に質問した。今後コスプレはどうなると思う?「今はまだコスプレは社会には反適合な感じがします。全体的に偏見の目とかあって認められてないっていうか。でも、これからどんどん広がると思います!もうすぐ社会に求められるんじゃないかな、コスプレが。そうなったとき、私たちを偏見の目で見てた社会を見返したいですね」にっこり笑って最後に彼女はこう言った。
いわいるおたくのように「自分らの文化は一般人にわかるはずがない」というスタンスではない。社会に反適合と見られているとわかっているからこそ、「変な人たち」とみられないように、レイヤーはルールやマナーと言ったものを厳守する。コスプレが社会に求められる時代、果たしてそんな時代は来るのだろうか。いや、もう近くまできているのかもしれない。彼女の言葉はそう思わせられるほどに、妙な説得力を持っていた。

* 「数時間の別世界」で、女性が多いこと・カメコのことについてわたるさんの話と誰かの話混ざったんいれてみた。本城さんは何か言ってたっけ???「焼肉」「喫茶」で男性の話してるし対比としていれよかなって。先生も女そんな多いん??って聞いてたし。
* あと題名について考えて。あと火曜か水曜できたら集まりたいから、空いてる日報告して。
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2004年10月09日

『コスプレ焼肉』10/10

 コスプレ。それは多少耳にしたことがあるものの、まだまだ馴染みのない言葉である。その言葉に帯びたイメージは、なんとなく、いやらしい。オタクっぽい・・・といったものではないだろうか。
 2002年8月13日(火)、TBSニュースの森で「コミケに熱狂48万人」と題された特集が放送された。35度にもなる会場に3日間で48万人が集まったのである。そして今年2004年も例外ではなく、全国各地でコミックマーケットやコスプレイベントが開催され、あまりの参加者の多さに会場を急遽増設するところもみられた。
またコミケでされる以外のコスプレ。例えばスッチー、ナース、女子高生などのコスプレも存在する。風俗業界は不景気の中、今だに巨大市場を持つ。コスプレしゃぶしゃぶ・焼肉なども年々増加している。更には、ラブホテルやプリクラを置くゲームセンターでは、制服は必須アイテムとなりつつある。
 今、コスプレをする人たちは年々増え続け、その数は何万人というものである。この現象を、マイナーな目で見ていくことはもはや限界かもしれない。何万人もの人々を魅了するコスプレとは、一体なんなのか。そしてコスプレを通じて得られるものとは・・?
その答えを見つけるべく、私たちは出かけた。

見るだけにして欲しい。それ以上は・・・うざい。Or勘違いが腹立つ。
日本橋。最近は東京系列の大型家電量販店が都心に進出してきたせいか、電器の町としての活気はあまり感じられない。数年前に倒産した大型百貨店のビルが、その一等地にそびえたっており、シャッターの目立つ商店街に夕闇が訪れた。
少し場違いな、風俗店を思わせる派手なネオンの立て看板の先に、その店はあった。煌煌とした店内。コスプレ焼肉というネーミングからは想像できない予想以上の明るさに多少拍子抜けしつつ、店内に入ると奥の席にはすでに一組先客がいた。
「いらっしゃいませ〜」と、店の奥からけだるそうに声がした。黒のミニのメイド服に編みタイツというセクシーないでたち。彼女が最初にテーブルについてくれたリカさん(仮名)である。ぽろぽろと、彼女は色々なものをこぼしていく。野菜に油に、箸からするっと落としてしまう。その度に、はにかむ笑顔がかわいらしい。セクシーな格好に似合わず、彼女の雰囲気はどこかほのぼの、おっとりしている。どうして、コスプレ焼肉で働いているのだろうか。
「やっぱり、時給がいいからかなぁ。1300円は大きいでしょ。家からも近いし。でも、明日でこのバイト辞めるんですよ」そう答えた彼女は少し残念そうに俯いた。なぜ、明日で辞めてしまうのだろう。
「実は、このバイトやってるの彼氏にばれちゃったんですよー。それで別れちゃって、ヨリ戻したいからやめようと思って」なるほど。しかし、なぜ彼氏に黙っていたのだろうか。
 「そりゃあ言えないですよ〜。彼氏どころか親にも言えない!別にやましいことするわけじゃないけど、やっぱりこんな格好だしね」そう言いながら、彼女は改めて自分の着ている服を見回した。短いスカートからは太ももがほとんどのぞいている。今日はメイド服だけれど、毎回違うのを着るのだろうか。「ほんとはいつも制服着てるんですよ。でも今日は気分転換てゆうか、友達と交換したんです。でもいつも着る服は大体決まってて、そんなに色々着たりしない。お客さんの要望があったら着替えるけど」あとからテーブルについたアヤさん(仮名)も、「そうそう。着るのはいつも露出が少なめのやつを選んでる。毎回変えるのとか面倒くさいしね」と、相槌を打った。しかし、コスプレ焼肉で働くということは、少なからず、客に性を提供することになるだろう。
 「たまに勘違いして触ってくる人とかいるけど、そういう人が一番腹たつ。あと、やたらじろじろ見てきたりとか。ほんとキモい」アヤさんは憤慨して机を叩いた。隣のリカさんも、うんうんとうなずいている。しかし一番いや客はと尋ねると「自分らだけで話をしてて、私に無関心な人。だって私いらんやん?ってなるし」。話を聞いていると彼女たちの言うことは、どこか矛盾している。“コスプレ焼肉”には、男性が性的なものを求めて来ているということを十分理解しつつも、性的な目で自分のことを見られるのは嫌がっているのだ。「お客さんが“コスプレをしている女の子”を見にくるのはわかってる。だから見るだけにしてほしい。携帯を聞いたり必要以上のことをされるのはうざい」といって二人揃って顔をしかめる。
*日本橋の描写。俺ら三人は反対したけど先生的にはやっぱり必要みたい。でも理由は日本橋を説明するわけではないとも言ってたし、あくまで少なめで。怪しい雰囲気を出すために「活気がない」「倒産」「シャッター」のフレーズを残した。ホームレスは個人的に明らかすぎかなって思ってはずしてみた。
*あと自給って1300円やったっけ??勝手に載せたけど誰が覚えてる??

ここはキャバクラじゃないorいやらしいのは制服だけ
さらに、彼女達は男性客への不満を口にするとき、二言目にはいつも、「ここはキャバクラと違うんだから」という。どう違うのかと尋ねると、「キャバクラは女の子がそれこそ男の望むままに、演じたりしなきゃいけない。それに自分を売ってる感じがする」。そう彼女らにとってこの場所はあくまで焼肉屋なのである。
つまり、彼女らにとってキャバクラは女性が”性”を売る空間。逆に”コスプレ焼肉”は、“コスプレ”が”性”を背負い、自分たち自身は“性”を売っていない空間なのである。やはり”性”を売ることはそんなに簡単なことではない。少なからず抵抗があるのだ。だからこそ”コスプレ”や“焼肉コスプレ"という空間によって、"性"の認識を変える。
彼女たちは見た目こそメイドやポリス、女子高生であるものの中身は普通の18歳の女の子だ。あけっぴろげな話し方。豪快に笑い、ツッコミも入れる。そこにはいやらしさは見受けられない。むしろいやらしく見られないように努めているのかもしれない。「いやらしいのは制服だけ」そう言いたげだった。
帰り際、リカさんが「また、来てねー」と違うテーブルから立って声をかけてきた。明日辞めるんじゃなかった?と聞くと、あそうだったと舌を出した。そう言って座り直すリカさんの短いスカートが妙に自然な気がした。

*最後の論やったとこ、野田論は女性の視点として大事。俺、こーへいが見逃しがちや から、一回入れてみた。女性人チェックしてな。
*あと論っぽかったところは固めすぎてたし散らばした。
*あと各章の題名をみんな考えて。ちゃうやつでも良いし。
*こうへいの最後のは入れた。AERAっぽいやわらかさを目指して。

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2004年10月08日

『メイド喫茶』10/10

「おかえりなさいませ。ご主人様」


「おかえりなさいませ。ご主人様」にっこり笑ってメイド服を着た女の子が、私たちを出迎えてくれる。そのメイド喫茶は、神戸のビルの中にある。外から店内は一切見えないようにされている。店内に一歩足を踏み入れると、そこにはなんともいえない世界が広がる。一見すると普通のカフェ。しかしたっぷりとしたひらひらのレースのカーテンに、壁にはいくつもの天使の絵画。そして音楽はというと多少大きいボリュームでクラシックがかけられている。メイド服の彼女は、いそいそと私たちを席に案内してくれる。メイド服は、膝下の長さのスカート、白いハイソックス、第一ボタンまでしめられたシャツとどこか窮屈なもので、、三つあみに眼鏡というアニメに出てきそうな格好だった。。席につき周囲を見渡すと、平日の二時過ぎという中途半端な時間にも関わらず、席は結構埋まっている。客は皆男性だ。端の席の二人連れ以外、皆一人で来ているようだった。パソコンに向かってなにやら文字を打っている者、携帯片手にメールしている者、週刊誌を食い入るように眺めている者・・・。
しかし、皆一様に落ち着かない。一見何かに熱中しているように見えるが、どうやらそうではないらしい。その理由はメイドが注文を取りにきたときに明らかになった。メイドが側を通るたび、それらの視線はふわふわ動く。メイドがカップにコーヒーを注ぐしかし彼らはメイド服の店員に対して意識的に目を向けない。しかし、全く見ないわけではなく、モノに隠れてちらちら見る。彼らは決してダイレクトにいやらしい視線を投げかけたりしない。それがこのメイド喫茶の暗黙のルールである。女性目当てで来る。この点はコスプレ焼肉と同じである。しかしコスプレ焼肉とは異なり、メイド喫茶では、今の社会にはびこる、短ければ、露出が高ければ「性」という方程式は通用しないのである。
* 日本橋同様、場所の話がやっぱり少し必要かな??やから最小限いれてみた。でもこういうの下手やし誰か書き直して。
* あと「コスプレ焼肉」と「メイド喫茶」の違いは前半部に挿入した。
* その違いを出すためにメイドの描写を前半部に挿入。
* 場所、メイドの描写は誰か手加えて。というか書き換えて。場所は意図ないしお任せ。メイドはえろさなしを表現して欲しい。描写は俺マジセンスない。

「生み出される世界」
「チリンチリン」 鈴がなった。 「はい、ご主人様」
素早くメイドの一人が反応してそのテーブルへ向かう。この店は大して広くない。むしろ狭いほうである。それにも関わらず、どの客も店員を呼ぶときは、この天使の羽をモチーフにした呼び鈴を鳴らす。他の喫茶店でありがちな、「おい」、「ちょっと」などとは決して言わない。
 これはまさに客と店員の両者が生み出す世界である。店員はメイド服を着て、客を「ご主人様」と呼び、つつましさを表現して、まさに“メイド”になりきるのだ。それに対して、客がいかにも“ご主人様”を演じることで、メイドの地位を確保するのだ。
さらにそれに加えて、この店の演出も一役買っている。砂糖と氷はハート型、あらゆる食器は天使で統一されているのである。お互いがご主人様・メイドになりきるような演出がなされた空間である。
駄目もとで取材したいとの旨を伝えた。突拍子の無い質問に少し、戸惑った様子のメイドは「少々お待ちくださいませ」と奥に入っていった。しばらくして、オーナーらしき女性の人が出てきた。「申し訳ございませんが、当店では取材は全て断っておりますので…」。      私たちはプライバシー保護のことや、決して興味本位ではないことを伝えたが、結果は変わらなかった。「当店はコスプレを売りにしているわけでなく、あくまでくつろげる空間を提供させていただいておりますので、そういった個別取材は困るんですよ。他のコスプレ喫茶と一緒にされては困りますので…」。柔らかい口調でそういうと深々とお辞儀をして、奥へ戻って行ってしまった。
 私たちが席を立つと、「行ってらっしゃいませ。ご主人様」と深くお辞儀をし、メイドたちが見送ってくれた。取材も拒否し、徹底したメイドの世界をつくっていた店の一歩外に出ると、メイド喫茶とは明らかに異なる、普通の風景が並んでいた。

* 後半はこーへいの断られたバージョンの方が良い。というのも前半は性の話で、後半はコスプレと、空間によっての変身の話。ってことは変なインタビューより徹底的な世界作りを書くべき。
* 題名をみんな考えといてー



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2004年08月24日

美主義を隠蔽する2つの仮面

MS(ミス・ユニバース)の選考基準は、@美A内面性B社会性の3点である。この記事では、選考組織による限定的な内面性と社会性の評価基準に対する非難をしている点では良い。しかし美について語らない点では同じだと思う。美も内面性も社会性も明確な基準がある訳ではない。しかし美について細かく語られることはなく、内面性や社会性ばかり語られる。これは他の女性の理想像コンテストでも同じであると思う。美というものについての評価は定着しているという事なのか。

しかし述べられはしないが確実に美は最も重要視されていると思う。僕が思うことは、美だけでは理想の女性として評価されないが、美は例外なく理想の女性像の最も重要な要素としてある。美だけで女性の価値を決めることはできなくなった。そこで美が理想の女性像のもっとも重要な要因ということを隠すために内面性や社会性というものが利用されていると思う。内面性や社会性というものアピールする事を通して初めて、美が女性像の要因として評価される事が許されると感じる。

例えば美人な女性がいるとする。しかし彼女が内面性などをアピールしないとする。この時、彼女は美しさという要素を備えているにも関わらず理想の女性として評価は高くない。逆に彼女が内面性などをアピールしたらとたんに理想の女性として高く評価される。
そして逆にあまり容姿がよくない人は理想の女性とされることはない。例え内面性・社会性が優れていてもである。そういう女性は偉大な人物や、偉大な母と表現される。この違いなんなのかはもう明らかである。

ここで実際に内面性が高いか低いかは重要な問題ではない。内面性というものは本来アピールしにくいもので、見えにくいものである。しかしアピールしないとなかなか評価されない。本当に内面性や社会性は理想の女性像の要素とされているのか。結論は、内面性や社会性というものは、理想の女性像の重要な要素ではない。社会はアピールされた内面性や社会性を必要とし、美を中心に理想の女性像が作られていることを隠蔽する道具として利用している感じがする。
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2004年08月16日

新1-2 『近代社会からの逃走』

1−2『近代からの逃走〜永遠回帰という方法〜』

 近代日本において人々は、成長や進歩という「物語」を共有していた。それが多くの人の<自分>や「上昇志向」を満し、空虚さ・苦痛を意識する人が少なかったといえる。
 しかし時代が変わり、成長や進歩という「物語」は消失し、自明の世界観というものがなくなった。そして<自分>や「上昇志向」という近代が作りあげた思考に空虚さ・苦痛を感じる人が生まれてきた。

 そして人々は<自分>や「上昇志向」というものから逃れようとするようになる。それのヒントになるのがニーチェの『永遠回帰』の概念である。

『永遠回帰』には3つの側面がある。@機械的思考の極限形式。世界はまったく同一の状態を永遠に反復しているという観念である。『永遠回帰』を「エネルギー恒存の法則」と照らし合わせる。つまり世界の有限性+エネルギーの有限性という2つの根本命題を含む。時間そのものには始点も終点もなく、世界は永遠回帰すると考える。わかりにくい人は摩擦のないビリヤード台を思い浮かべると良い。台=世界、玉=人、そして台の中で玉は動き続ける内にどこかで同じ順序と脈絡で反復する。
 このような機械論的思考は伝統的世界観を破壊する。(A)世界は神が創造した。よって世界には意味がある。(キリスト教的)(B)世界は進歩、発展する。(近代哲学的)(C)世界には始まりがある。(唯物論的)などの世界観を停止させる。つまり「超越的」な価値観を全て禁じ手にし、世界を是認するのである。

 Aニヒリズムの極限化。@の反面として、世界は始まりも終わりもなく、したがって動機も目的もなく、永遠運動する機械のようにただ存在しているにすぎないという思考を生む。世界の外側に超越的な意味もなく、「死んだら終わり」という感覚を持たせる。
 逆に「生きてるあいだは・・」という観念も生まれるが、『永遠回帰』は「生きてるあいだは・・」という観念を認めず、「何をやっても一切は決定されている」という観念である。このように『永遠回帰』はニヒリズムを極限化するのであるが、それ以外にニヒリズムを克服する術はないとニーチェは言う。

 Bルサンチマン克服、生の肯定。『永遠回帰』は単に根本的価値顚倒のための思想でなく、価値創造にも関わる。ニヒリズムの徹底の果てに現れる「聖なる虚言」、つまりこれまでとは異なる新しい「価値創造」の原理である。キリスト教の「虚言」は生を否定し、信じれば救われるといった「救済の物語」であった。それは新しい神を作り出すことになる。「聖なる虚言」は生を肯定し、超越的なもの(神)の復活を拒絶する。そのことが生の「是認」から「肯定」へと進む。  
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2004年06月29日

論文 聖職者と社会U

 この前の聖職者論の続き。昨日またまた聖職者が問題を起こした。教え子をホテルに呼び出しわいせつ行為をしたとのことだった。また早稲田の教授の事件。これらの事件を考えていると自分の論の危うさを感じてしまった。つまり匿名性の危険さである。このような事件に対して、「聖職者なのに・・・」という意見は的外れである。むしろ「聖職者だからこそ起こる事件」なのである。そのことに気づいた。
 聖職者は一般人と異なる点が2つある。1つに性規範の違い。一般人はしてよいこと悪いことの境界は性規範と法によって定められる。Hサイト、風俗は良いがレイプや痴漢はいけない。法>性規範の関係によりその境界が形成される。しかし聖職者はどうだろうか。性規範>法になっているように思う。つまり法はあまり関係ないのである。そしてその代わり一般人より厳しい性規範によって厳格に規制される。つまりレイプ、痴漢はおろか風俗、Hサイトも禁止される。その中で聖職者が欲望を行使するときレイプもHサイトも同じ位の罪の意識なのではないか。性規範を破るという意味において両者に違いがないのである。ここでは一般人の論理は通用しないこともわかる。基準が異なるからである。
 そしてその規範破りを隠すために匿名的であろうとする。性規範を破っていることを認識しているからこそ匿名にこだわる。Hサイトなら何の問題もない。しかしレイプ、痴漢、のぞきなどはどうであろうか。一般人の規範や法の観点からいえば大問題である。しかし聖職者からするとHサイトもレイプ、痴漢、のぞきも相対的な差でしかない。むしろ風俗や雑誌などと違い匿名性があるぶんこっちに流れやすいといえる。
 二つ目の違いは権力の違い。一般人では権力が使えるといってもたかがしれている。更に外的権力であるゆえに力も弱い。しかし聖職者はどうか。権力関係は強く、しかも内から作動することで力を増す。この権力の強さが性的虐待を生む。被害者はなかなか断れず秘密も守るのではないか。そして聖職者は匿名性を保ちつつ欲望を行使していく。風俗や雑誌などの危険を避け、より確実に匿名性を保ちつつ欲望を行使する。
 これは聖職者が「自分は普通の人間である」と思うことで、良いと悪いの基準が一般人に近づく。それにより、極端な性規範>法の形態は解消される。しかしまだ匿名性を持たなければならないことには変わりなく、一線を越える可能性は持ったままである。どうすれば良いのか。聖職者の見方を変える必要があるのだろうか。それとも聖職者は聖職者たる性規範に従うべきなのか。理想的かもしれないが前者になるのだろうか。(こうへい君の意見にのっちゃいました)。でもやっぱ同性愛認めようとかと同じくらい難しいと思う。
posted by かじゅき at 00:41| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月26日

聖職者と社会


 「聖職者」というものに結論が出ないまま解散した昨日の夜。どうもにえきらない。今日「司祭」という映画を見た。イギリスのカトリックの牧師の話だった。彼は自分が同性愛者だと気づく。やはり「聖職者」という役割との間で罪悪感を感じる。彼は同性愛者であることがばれてしまう。しかしそれでも彼は司祭であることを続けた。多数の人はそれを認めない形で終わった。カトリックがこの映画が出回るのを非難したことからも、現実社会を切り取っていると感じた。
 そして昨日の続き。@聖職者は必要か。必要不可欠かはわからない。多くの人が必要としなくなれば必要ないのかもしれない。しかしそのようなことは近い未来にはありえないと感じる。世界中で宗教というものが力を持ち、日本でも仏教や教師という聖職者が存在する。相対的に教師というものの価値が下がったとしても、きっと新しい聖職者像を求めるに違いない。道徳・規範の指導だけでなく、存在として必要とする。
 しかし一方で聖職者にも欲望は存在する。A聖職者はどうふるまうべきなのか。欲望を感じない人、また規範・道徳内の欲望(夫婦間の生殖活動)以外を感じない人は問題ないかもしれない。しかしそれ以外の欲望(ポルノサイト、生殖以外の性行為、同性愛・・・)も持つものはどうすればいいのか。
(a)聖職者をやめるという選択。これは聖職者の地位は守れる。しかし性の多様さをなくすことになる、一段と聖職者の性が抑圧される。(b)性をオープンにした上で聖職者を続ける。これはある意味理想かもしれない。しかしそれで世間が受け入れるか。世間が認めるならありであろう。しかし現在の状況からして厳しいのではないか。(c)プライベートと分けるという選択。(b)に近い。これも結局世間次第である。いくら公私を分けたところで、聖職者に求められるのは「人格」であるので意味をなさない。(d)匿名的なかたちで発散する。つまり身分が知られない形での発散。これは地位も守り、欲望も解消できる。しかし根本的解決にはならない。
結局、社会が見方を変えれば良いとういう結論になってしまうのか。「聖職者」の見方は変わるのであろうか。不道徳な「聖職者」というものに人々は尊敬できるのか。同姓愛・性同一性障害などを考えるときにつねに思う。社会の見方が変われば良いというのは理想主義的すぎるのかもしれないと。。。。
posted by かじゅき at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月25日

汝、Hサイトを見るなかれ

 ポルノサイトにはまって罪の意識に悩む牧師たちがいる。彼らを支援するサイトや合宿カウンセリングも増えている。聖職者という役割と欲望のはざまで罪悪感に悩む人たちについて述べる。
 役割期待とは、人を生きやすくする反面、人を生きにくくするということがある。前者は子供、学生、老人などがあてはまる。その役割を期待されることで、余計な期待を背負わず、気楽な生き方が可能となる。後者は牧師、教師などの聖職者が当てはまる。その役割を期待されることで、過剰な期待を背負う。聖職者が期待される役割とは、規律・道徳を教える立場であるがゆえに、世間以上の規律・道徳を守れというものである。この役割期待と、自己の欲望のギャップに罪悪感を感じる。
 聖職者はこの罪の意識に対してまずは欲望を消し去ろうとする。役割期待を受け入れることによって、その欲望を周りに言うことも出来ず、孤独な欲望との戦いを強いられる。しかしその欲望は消えず、罪悪感も残る。次に規範・道徳から見ると欲望が悪いということは、誰よりも感じながらその欲望を世間にばれない形で実行する。それは権力のもとでの虐待や、匿名であるインターネットかもしれない。実行は一瞬の快楽を伴う。規範・道徳を破る快楽であろうか。しかしその快楽は一瞬であり、欲望は解消せず、前以上の罪悪感だけが残る。
 欲望を抑圧・実行するだけでは罪悪感は消えることはない。禁欲的な道徳・規範を持てという役割期待が罪悪感を生む。この役割期待と距離を置く、つまり「自分は聖職者でなく普通の人間」と思うことが、欲望を持つことの罪悪感を軽減する。一度欲望を知ってしまうと、欲望を無視することはできなくなる。ニーチェは「人間は欲望によって苦悩を作り出す、しかしこの欲望以外には人間の生の理由はありえない」と言う。私たちは欲望と共に生きる以外の選択肢はありえないのである。
 これらの話は聖職者だけの話ではない。まじめという役割期待を負わされる子供の万引きや援交、エリートサラリーマンの痴漢。その他にも、世の中には役割期待と欲望のはざまでの苦悩が溢れているのではないだろうか。
 その後の議論を通して、@聖職者の必要性A聖職者の行動については次回ということで。
posted by かじゅき at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月21日

俺もヴィクトリア朝時代の人間

 グループ研究でホスト・キャバなどの「性」に関わる研究をしようとした。私たちの主張は、私たちの世界と夜の世界の間に分厚い壁があるとした。つまり異世界を見る視線である。そしてその壁を取っ払い、お互いの世界がより良く生きられるとした。しかし結局ゴーサインはでなかった。それは、あまりにも私たちが典型的なヴィクトリア朝時代の人間であったからであろうか。
かつてヴィクトリア朝時代(1819−1901)というものがあった。この時代はイギリス帝国主義の時代であり、世界の商工業の覇権を握り、植民地は全世界に広がった。そして独特の文化も生み出した。
ジェントルマン・レディーの文化である。これらは力を失っていた「宗教」に代わって新しい社会規範の役割を果たした。人々はジェントルマン・レディーの社会規範に合わせて自己を厳格に規律した。例えば服装。男性はシルクハットにタキシード。女性はコルセットにドレス。互いに身体を厳格に規律した。しかしこの規範は強制的なものではなかった。強制や指導という前近代的な権力でなく、自主性や主体性という原理による権力である。つまり前近代の権力が上→下、外部の力であったのに対し、近代の権力は下→上、内部の力であった。
しかしこれは身体だけにとどまらず、精神を規律した。その代表が「性」である。ヴィクトリア朝以前は「性」に対して寛容だったといわれる。しかしヴィクトリア朝時代に入ると「性」は用心深く閉じ込められる。語ることは「夫婦」と「生殖」に限定された。それ以外を語ることは、追放され、否認され、沈黙を課せられることになる。もしくは特定の空間においては語ることを許容される。それは精神病院と娼家である。「性」は極めて慎重に、用心深く閉じ込められていったのである。
これらの「性」に関する動きに対して、「性」の禁止と資本主義を合致させることで、人々は「性」を抑圧されたものとする。つまり資本主義の労働と「性」が相成れない存在であるとし、厳格に「性」を抑圧したとする。しかしそれは本当だろうか?本当に抑圧であるのだろうか?
私たちは「性」が抑圧されていたとすることに情熱を注ぎ込む。抑圧されてたことが望ましいかのように。これは歴史的自明な出来事ではない。実際には「性」は抑圧されていなかった。そして今もそうである。私たち自身がさまざまな権力(精神医学、学校、家族・・・)によって扇動され、また自らの欲望によって、「性」が抑圧されているものとする。そしてその抑圧を解消しようとすることに快楽を覚える。権力に逆らい、真実を語り、快楽を得ようとする。このために自ら「性」を抑圧の方向に閉じ込める。これはヴィクトリア朝だけの話ではない。今みんなが、そして私自身もヴィクトリア朝時代の人間である。「性」に対して述べるときの欲望、「性」を解放しようとする欲望、権力に逆らう欲望、全てがそうである。
[参考]フーコー「知への意思」
posted by かじゅき at 15:20| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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