2004年11月10日

メトロ学園

 まだ未完やけどー。

『メトロ大学開講』
8月某日、私たちは京都のとあるライブハウスに出かけた。今夜、ここで「コスプレ」についての講演会が開かれるという。このライブハウスは、毎月数回、カルチャースクールとして様々な分野の人々を講師として呼び、まるで大学のように講座を展開している。創立14周年を機に、文化創造と発信の“場”として始めたのだというが、とても斬新な試みである。
普段はライブハウスなのに、中は暗くてひっそりとしている。ドキドキしながら中に入ると、そこには小さな舞台を前にして椅子がずらっと並んでいた。その光景に多少圧倒されながらも、私たちは迷わず一番前の席を選んだ。すると店の奥のほうがなにやら奇妙な光景だった。コスプレの衣裳に身を包んだ人々が、まだ始まる前だというのに楽しげにアルコールをあおっている。メイドのような服に身を包んだ女の子と、なにかのキャラクターを意識したであろう男の戦闘服…。そしてよくわからないアニメのTシャツの男が二人。皆、一様に異様な雰囲気だったが、どうやら彼らが今夜の主催者であるらしい。そう、彼らこそ今夜の主役であり、そして私たちの講師なのである。
 「えー、では少々時間はずれ込みましたが、これよりメトロ大学“コスプレ講座”、始めていきたいと思います!どうぞ、本日はよろしくお願いします!」。すらっと背は高く、長めの髪に整った顔立ち。彼の名前はK´(Kダッシュ)。自称レイヤード・日本代表である。そして彼の衣裳は青のマントに白の縁取りの戦闘服。“鋼の錬金術師のイケメンキャラ”の衣裳だという。その衣裳代はなんと五万円。その衣裳はキャラの特許をとったロゴ入りの本物の衣裳だそうで、その稀少性からそれくらいの金額はくだらないらしい。はっきり言ってこの手の衣裳は人気のアニメということもあり、似せて作ったものは安くていくらでもある。しかし、あくまで本物にこだわる。そのこだわりと惜しまないお金の使い方に、彼のコスプレに対する熱い思いが伝わってくる。
 
  『コスプレ界の変動〜共通の世界観の喪失〜』
「まずはコスプレの歴史について話を進めていきたいと思います!」こう前置きして彼は黒板に次々と文字を書き込む。まず、コスプレは二つの意味を持っていたこと。一つ目はおたく文化から派生した趣味、もう一つは社会風俗から派生した女性がするサービスのことである。今日話す内容は、前者のこと。まず、コスプレはいつくらいから始まったのか。
 「日本には、“オタク”と呼ばれる人種が多いですよね。それは日本の文化においてアニメや漫画が海外に比べてかなり発達していたからなんです。そういったこともあり、次第にアニメのキャラクターの格好をする人が出てきた。最初はやっぱり・・・・・・」。彼は10分ほど休むことなく話続けた。日本のアニメ文化・コスプレ文化に誇りを持っているのが伝わってくる。1994年頃からコスプレは繁栄期を迎える。そして、コスプレブームはあるモノの普及がきっかけでまた風向きが変わったという。
 「1995〜98年は、コスプレの商業化が始まります。大体、このあたりから撮影重視のイベントとかが増加してきてコスプレイヤー同士の一体感がなくなってくるんですよね。それはなんでかというと、1998年頃からパソコンの普及が大きいんです。今までとは違ってパソコンの普及で、そのコスプレしてる写真を見て、単純に衣裳がかわいいからとかかっこいいからやるって人も増えてきた。いわゆるブームってやつです。まさにいろんな人がコスプレを気軽にやり始めたんですよ。そもそも最近のレイヤーは・・・・。」
 彼はそう続けると、ふんと鼻で笑った。その顔は興味本位でコスプレする奴は目障りだ、とでも言いたげだった。彼は言うまでもなく、何年もレイヤーをやり続けているのである。
 これはまさにレイヤー同士の共通の世界観の喪失である。一方は、自分がしているキャラクターのファンであり、もちろんその漫画のストーリーも完璧にわかる。しかし一方で、自分がしているキャラがなんのアニメかさえわからずに、ただその見た目に惹かれてコスプレをする。彼らの中で達成感や仲間意識はもはや生まれないだろう。いうなれば、最初は一通りしかなかったレイヤーのカタチが分裂したともいうべきなのだろうか。そうなればK´さんのようにコスプレやキャラクターに思い入れがある人は、ますますオリジナルや知識に固執し始める。どうやらコスプレ界に大きな変動が起きていたようだ。     

『二重のロールプレイング』
「今、レイヤーのなかで主流となっているのがコスネームをつけることなんです。彼らはコスネームを作ることによって、『コスネームを持つ自分』と、さらに『キャラクターになりきる自分』という二重のロールプレイングをしていることになるんです」
 コスネーム。この言葉で、コミケ会場でインタビューした本城貴嶺さんを思い出した。彼女もまた、“コスネーム”を持つレイヤーの一人だった。そして彼女はうまく“自分”と“本城貴嶺としての自分”と“ガンダムのラクスになりきる本城貴嶺”を使い分けていた。それがまさに自分というものを持ちながらも二重のロールプレイングをするということなのだろう。
本城さんは、「コスプレは大好きだしやめたくないもの。でもあくまで趣味。日常生活に支障が出るならやめると思う。仕事が忙しいときはコミケに行く回数を減らしたりもします」。あくまでコスプレはロールプレイングゲーム。安定した日常生活があって初めて楽しめるもの。だから日常生活にコスプレを持ち込んだり、日常生活を犠牲にしてまでコスプレをすることはない。
 しかしK’さんは、コミケだけではなく、仕事もK’として生活する。彼には日常と非日常の境い目はなく、そこにはロールプレイングは存在しない。同じレイヤー同士でもこれだけ違う。
 今後コスプレはどうなると思うかと尋ねると、本城さんは「今はまだコスプレは社会には反適合な感じがします。全体的に偏見の目とかあって認められてないっていうか。でも、レイヤーの中ではこれからどんどん広がると言ってる人が多いと思いです!レイヤー向けの雑誌も最近増えてるみたいですし。コスプレ人口も増えてますし。もうすぐ社会に認められるんじゃないかな」。どうやらコスプレは確かに、社会に認められつつあるようだ。
 そのことに対してどう思う。「少し前に名古屋で国際コスプレなんとか?という名目で外国の方(レイヤーさん)を招いて大須の街をコスプレしながら練り歩くといった、少し理解し難い企画がテレビ局経由で開催されたんですよ。でも、私個人としては、そのような企画に対してはっきり言ってひいてます」。レイヤーの中には、コスプレが社会に認められることを喜ぶ人がいる一方で、本城さんのように社会に認められることに不快感を覚える人もいる。
 最後に本城さんはこう言った。「コスプレはあくまで非日常的なもので、あくまで趣味だからこそ楽しいもの」。
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2004年10月29日

とりあえず発表終了

 昨日制作の時間に死の宣告されてた割りには叩かれませんでした。ようは形式というか文章の問題が一番。AERAをとりあえず読めということ。やわらかい文章は、去年綿矢りさの『インストール』よんだんがはじめて。それがやっぱり障害に・・・。AERA的文章はやっぱり書けるようにならんんと。
  
 とりあえず論自体はおかしいとは言われてないし、前の類型復活させる方向で。んで論っぽい文章をカット。無駄な描写はカット。だいぶ少なくなりそう。

 さいわい3限にぐろが「インタビュー相手が見えない。無理やりいわしてる」っていう批判は逃れられた。インタビューはこれ以上ないくらいうまく言ってるという評価。でもいい魚釣ったのに、料理の仕方が最悪とのことです。新鮮まぐろをみじん切りにした感じらしい。

 結局ビッグイシュウー班の意見が参考になる。なぜコスプレするのか。『相手志向』=焼肉と『自分志向』=コミケ、メトロ、両方含むのがメイド喫茶。コミケの違いは『モダン』か『ポストモダン』か。これが軸として見えてきた。

 そして一番いいとされる『ポストモダン』志向のメリットと限界をまとめに。限界がまだあやふやかもやけどいい感じになると思う。提出は20日後なり。
posted by かじゅき at 23:38| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月06日

『コスプレ焼肉』訂正版

こーへい、野田ちゃん。岡本さんにまかせっきりになってますよー。子供やないんやから、責任ははたしましょー。 

 コスプレ。それは多少耳にしたことがあるものの、まだまだ馴染みのない言葉である。その言葉に帯びたイメージは、なんとなく、いやらしい。オタクっぽい・・・といったものではないだろうか。
 2002年8月13日(火)、TBSニュースの森で「コミケに熱狂48万人」と題された特集が放送された。35度にもなる会場に3日間で48万人が集まったのである。そして今年2004年も例外ではなく、全国各地でコミックマーケットやコスプレイベントが開催され、あまりの参加者の多さに会場を急遽増設するところもみられた。
またコミケでされる以外のコスプレ。例えばスッチー、ナース、女子高生などのコスプレも存在する。風俗業界は不景気の中、今だに巨大市場を持つ。コスプレしゃぶしゃぶ・焼肉なども年々増加している。更には、ラブホテルやプリクラを置くゲームセンターでは、制服は必須アイテムとなりつつある。
 今、コスプレをする人たちは年々増え続け、その数は何万人というものである。この現象を、マイナーな目で見ていくことはもはや限界かもしれない。何万人もの人々を魅了するコスプレとは、一体なんなのか。そしてコスプレを通じて得られるものとは・・?
その答えを見つけるべく、私たちは出かけた。

『見るだけにして欲しい。それ以上は・・・うざい。Or勘違いが腹立つ。』
とある路地の細道に、その店はあった。煌煌とした店内。コスプレ焼肉というネーミングからは想像できない予想以上の明るさに多少拍子抜けしつつ、店内に入ると奥の席にはすでに一組先客がいた。
「いらっしゃいませ〜」と、店の奥からけだるそうに声がした。黒のミニのメイド服に編みタイツというセクシーないでたち。彼女が最初にテーブルについてくれたリカさん(仮名)である。ぽろぽろと、彼女は色々なものをこぼしていく。野菜に油に、箸からするっと落としてしまう。その度に、はにかむ笑顔がかわいらしい。セクシーな格好に似合わず、彼女の雰囲気はどこかほのぼの、おっとりしている。どうして、コスプレ焼肉で働いているのだろうか。
「やっぱり、時給がいいからかなぁ。家からも近いし。でも、明日でこのバイト辞めるんですよ」そう答えた彼女は少し残念そうに俯いた。なぜ、明日で辞めてしまうのだろう。
「実は、このバイトやってるの彼氏にばれちゃったんですよー。それで別れちゃって、ヨリ戻したいからやめようと思って」なるほど。しかし、なぜ彼氏に黙っていたのだろうか。
 「そりゃあ言えないですよ〜。彼氏どころか親にも言えない!別にやましいことするわけじゃないけど、やっぱりこんな格好だしね」そう言いながら、彼女は改めて自分の着ている服を見回した。短いスカートからは太ももがほとんどのぞいている。今日はメイド服だけれど、毎回違うのを着るのだろうか。「ほんとはいつも制服着てるんですよ。でも今日は気分転換てゆうか、友達と交換したんです。でもいつも着る服は大体決まってて、そんなに色々着たりしない。お客さんの要望があったら着替えるけど」あとからテーブルについたアヤさん(仮名)も、「そうそう。着るのはいつも露出が少なめのやつを選んでる。毎回変えるのとか面倒くさいしね」と、相槌を打った。しかし、コスプレ焼肉で働くということは、少なからず、客に性を提供することになるだろう。
 「たまに勘違いして触ってくる人とかいるけど、そういう人が一番腹たつ。あと、やたらじろじろ見てきたりとか。ほんとキモい」アヤさんは憤慨して机を叩いた。隣のリカさんも、うんうんとうなずいている。しかし一番いや客はと尋ねると「自分らだけで話をしてて、私に無関心な人。だって私いらんやん?ってなるし」。話を聞いていると彼女たちの言うことは、どこか矛盾している。“コスプレ焼肉”には、男性が性的なものを求めて来ているということを十分理解しつつも、性的な目で自分のことを見られるのは嫌がっているのだ。「お客さんが“コスプレをしている女の子”を見にくるのはわかってる。だから見るだけにしてほしい。携帯を聞いたり必要以上のことをされるのはうざい」といって顔をしかめる。

『ここはキャバクラじゃないorいやらしいのは制服だけ』
さらに、彼女達は男性客への不満を口にするとき、二言目にはいつも、「ここはキャバクラと違うんだから」という。どう違うのかと尋ねると、「キャバクラは女の子がそれこそ男の望むままに、演じたりしなきゃいけない。それに自分を売ってる感じがする」。そう彼女らにとってこの場所は焼肉屋なのである。
つまり、彼女らにとってキャバクラは女性が性を売る空間。逆に”コスプレ焼肉”は、“コスプレ”が”性”を背負い、自分たち自身は“性”を売っていない空間と考える。だからこそコスプレ焼肉の従業員が足りなくなることはない。彼女たちは見た目こそメイドやポリス、女子高生であるものの中身は普通の18歳の女の子だ。あけっぴろげな話し方。豪快に笑い、ツッコミも入れる。そこにはいやらしさは見受けられない。むしろいやらしく見られないように努めているのかもしれない。「いやらしいのは制服だけ」そう言いたげだった。
 話を聞いている限り、決して「コスプレが好きだから働く」というわけではなさそうだった。楽して儲ける。それが"コスプレ焼肉”で働く一番の理由だろう。しかし楽して儲けるためには”性”を売る必要がある。男性はもちろん多数が”性”を求める。それに対し女性は“コスプレ”、"コスプレ焼肉”という空間、これらを結びつけ、”自分と結びつかない性”だけを売るという、ある種の思考転換が達成されているのかもしれない。

一番頭に「制服系」の記述なかったから加えました。
『見るだけに・・』は、一見した矛盾を明らかにするためにちっと加えました。
『ここはキャバクラ・・』は少し減らして、足した。

『コスプレ的思考』ってやっぱり『コスプレ』だけでは不可能。それに必要なんは@まず当たり前やけど「制服」。次がA空間。意味のない空間なんてない。「喫茶」「焼肉」いずれも意味が発生してる。前者は「メイド」になりきれる空間。後者は「個人と離れた性」を消費させる空間。と思考転換して読みかえる。
難しいこと言うてるけど、全部に共通するのは、「コスプレ」と「空間」を利用して頭の中で思考転換(物の見方)を達成する。「コミケ」と「メイド」はわかりやすいと思う。直接楽しさのためにやってるから説明しやすいし。
難しいのは「焼肉」。直接楽しい訳ちゃうし、金あるならやりたくはない。でも頭の中で思考転換(ものの見方)は達成する意味ではやっぱり共通して「コスプレ的思考」。コスプレ的思考があれば、日常にはおかしいとされてる「コスプレ焼肉」で働くのも余裕になる。
 それら2つ+日常性(時間性)。安定した日常があるからこそ「コスプレ」が楽しめるということ。「焼肉」では普段学生。「コミケ」ではイベント以外。「喫茶」では他に職など。これら3つの絡みあいの中で「コスプレ的思考」は達成される。これが俺なりの一本の線。
 非日常系に絞ったことでとりあえずA空間B時間の話も筋が比較的通ると思う。
posted by かじゅき at 02:52| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『コミケ』訂正版

『コミケに熱狂』
まだ七月半ばだというのに、夏本番の強い日差し。照り返す太陽がまぶしい。目の前にはすでに一糸乱れぬ、長蛇の列が出来ている。ここは南大阪のじばしんイベントホールである。今日はここを会場としてコミケが開催されるのだ。私たちは戸惑いながらもその後に続く。まわりを見渡すと、みんな見た目こそ違うものの、どこかしら似たような雰囲気が漂う。手には大きい荷物とそれぞれパンフレットを持ち、10時に開くはずのドアを今か今かと見つめている。
 10時きっかりにドアが開いた。会場の中に入ると、コミケらしくすでに同人誌の販売やアニメのキャラクターの手作りグッズなどが動線の両側で所狭しと販売されている。そうこうしている間に、会場はあっという間に人がいっぱいになった。いつの間にか、レイヤーたちがどんどん増えてきている。今回は、主にジャンプのアニメがメインらしく、レイヤーには「テニスの王子様」、「鋼の錬金術師」、「NARUTO」のコスプレが多い。しかし、それ以外にも色々いる。ハリーポッターコスプレの「ポッタリアン」や、天使に、ガンダムなどである。

『数時間の別世界』
その中で、ひときわ目立っている女の子が目に止まった。一見、モデルと見間違うくらいの細くて長い足が鮮やかな水色のミニスカートから伸びている。上に羽織った長いオレンジのひらひら上着が、スレンダーな体型を強調している。彼女のまわりには、不思議な雰囲気が漂っていた。
彼女はとても知り合いが多く、歩くたびに声をかけたり、かけられたりしている。これが本城貴嶺さん(仮名)の第一印象である。彼女は若干18歳。その年齢には似つかわしくない、大人びた顔と、はきはきした喋り方。

なぜ、彼女はコスプレをするのだろうか。「家がコスプレ用の服を作っているっていう影響もあるけど、やっぱり自分の趣味かな。ちなみに今日のコンセプトはガンダムのラクスなんです」。彼女の家は、「えんじぇる★も〜ど」というコスプレ制作のお店を出していて、主に通販で売り出しているという。彼女が堂々と会場内を闊歩するわけは、その着ている商品の宣伝のためでもある。
 しかし彼女がコスプレをするのは、宣伝だけのためではない。「やっぱりコスプレをやるのには、違う自分になれるっていう楽しみがあります。毎回キャラクターを変えるたびに、衣裳も変わるし、新しい自分になれる感があって…」。それは今の自分に満足していないということなのだろうか。常に求める違う自分や新しい自分。その裏側には、現代社会への不満や、自己に対する不満があるのでは?
「そんな大袈裟なもんじゃないですよ。ただ楽しいじゃないですか。その数時間だけは現実とは違う世界にいて、いろんなキャラクターの人と喋って盛り上がるのって。それが終われば衣裳も脱いでまたいつもの自分に戻るんですけどね」カラカラと笑いながら、喋るその様子は、どこかさっぱりしていて割り切っている感じがした。

『素の自分じゃおもしろくない』
彼女は、うまく“自分”というものと“コスプレイヤーとしての自分”を使い分けている。例えば彼女の名前、これはもちろん本名ではない。コスプレイヤーならほぼ全員が持っている、この世界での“コスネーム”なのだという。本城貴嶺として、そのキャラクターになりきることで匿名の世界でめいっぱい楽しむのだ。ただコスプレをするのではなく、そのキャラクターになりきることはそんなに重要なことなのだろうか。
「うーん、重要というか・・せっかく何かのキャラクターの衣裳を着るのに素の自分じゃおかしいし、つまんないでしょ。でも会場内でずっとそのキャラを維持するの、なかなか難しいからみんな一番なりきるのって、やっぱり撮影のときじゃないですかね」。この一言で、会場内で見かけたさまざまな風景に対する違和感が一気に解消された気がした。
そう、コスプレイヤーの人々の多くは“撮影”を目的として足を運んでいる。あちこちで見られるフラッシュの嵐。そんなとき、撮られる側のレイヤーたちを見てみると、決まってなにかのポーズを作る。普通のピースはまずあり得ない。必ず自分がしているそのキャラクターを端的に表すことのできるポーズを作るのである。この貴嶺さんも例外ではない。何度か撮影に応じてくれたとき、決まって色々ポーズをつけてくれる。そこには照れなど生じない。カメラに撮られる瞬間、もう“自分”ではなく“本城貴嶺”としてそのキャラクターになっているからである。しかし、それは会場内だけに限られるという。会場の外でまで“コスプレ”をするのはルール違反。それはコスプレイヤーたちの間で暗黙の了解なのだという。

『被るキャラクター』
 更に会場内の、一人一人を観察すると、ある面白いことに気が付いた。彼らには法則がある。それは仲間を通じて、その作品を完成させようとすることである。その中で彼らにはキャラクターの設定があり、それぞれがキャラクターになりきり、作品を楽しむ。しかし、当然ながら人気のあるキャラクターなら必然的に他の人と被ることもあるだろう。
 「確かに、レアキャラとかじゃない限り、メジャーなアニメはキャラが被りがちですよね。だからみんな最近アレンジするんです。ただし、あくまでもそのキャラの特徴とかは変えないんです。微妙に色を変えたり模様を変えたり。自分のオリジナルでそのキャラを表現するんですよ」。しかしこのアレンジというものには、現代社会に充満する「個性主義」を感じずにはいられない。人と同じでは嫌。自分オリジナルを求める傾向である。もちろんレイヤーの全てがそうではない。しかし本来キャラになりきる没個性のコミケ社会にも、個性主義が侵入し始めているのかもしれない。

『コスプレはどんどん広がる』
最後に彼女に質問した。今後コスプレはどうなると思う?「今はまだコスプレは社会には反適合な感じがします。全体的に偏見の目とかあって認められてないっていうか。でも、これからどんどん広がると思います!もうすぐ社会に求められるんじゃないかな、コスプレが。そうなったとき、私たちを偏見の目で見てた社会を見返したいですね」にっこり笑って最後に彼女はこう言った。
いわいるおたくのように「自分らの文化は一般人にわかるはずがない」というスタンスではない。社会に反適合と見られているとわかっているからこそ、「変な人たち」とみられないように、レイヤーはルールやマナーと言ったものを厳守する。コスプレが社会に求められる時代、果たしてそんな時代は来るのだろうか。いや、もう近くまできているのかもしれない。彼女の言葉はそう思わせられるほどに、妙な説得力を持っていた。

『コミケに熱狂』では描写を減らしてみた。量が余裕なら増やしても○。やっぱり量が足りなくなるし、さすがに多いかなって。
野田ちゃんも触れてた長蛇の列、後トイレの行列を入れる意図がちっとわからんかったし削ってみた。意図があるなら言うてな。描写ならカットで。
『数時間の別世界』と『素の自分じゃおもしろくない』は「変身願望」のポイントやしあまり削らず。
『被るキャラクター』では、逆にコスプレ批判を展開。岡本さんの逆で個性がない現代じゃなくて個性が充満したのが現代社会。目指すは脱個性社会。
『コスプレはどんどん広がる』では、「おたく」と区別。社会に認められること歓迎してるし、その証拠としてルールの徹底。列乱さない。撮影スペース。会場でしかコスしないなどから読み取ってもらう。
『ゴスロリ」は使うならファッション系の分野で。でも非日常系だけにする可能性もあるしとりあえず切ってみた。『コミケ」と『喫茶』でだいたい4枚。「焼肉」と「メトロ」で3枚半。はじめと最後で1枚半。写真で一枚。という計算かな。

 

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2004年10月05日

『メイド喫茶』訂・訂正版

基本的に俺の意見ちゃんとうまく挿入しててくれたし、直すとこは個人的にはなし。
DOキャラットのインタビューちっと付け足して、焼肉コスプレとの違いをちっと入れてみた。量があまったら入れてみてって感じっす。

『おかえりなさい。ご主人様揺れるハート

「おかえりなさいませ。ご主人様」にっこり笑ってメイド服を着た女の子が、私たちを出迎えてくれる。店内に一歩足を踏み入れると、そこにはなんともいえない世界が広がる。一見すると普通のカフェ。しかしたっぷりとしたひらひらのレースのカーテンに、壁にはいくつもの天使の絵画。そして音楽はというと多少大きいボリュームでクラシックがかけられている。メイド服の彼女は、いそいそと私たちを席に案内してくれる。席につき周囲を見渡すと、平日の二時過ぎという中途半端な時間にも関わらず、席は結構埋まっている。客は皆男性だ。端の席の二人連れ以外、皆一人で来ているようだった。パソコンに向かってなにやら文字を打っている者、携帯片手にメールしている者、週刊誌を食い入るように眺めている者・・・。
しかし、皆一様に落ち着かない。一見何かに熱中しているように見えるが、どうやらそうではないらしい。その理由はメイドが注文を取りにきたときに明らかになった。メイドが側を通るたび、それらの視線はふわふわ動く。メイドがカップにコーヒーを注ぐしかし彼らはメイド服の店員に対して意識的に目を向けない。しかし、全く見ないわけではなく、モノに隠れてちらちら見る。彼らは決してダイレクトにいやらしい視線を投げかけたりしない。それがこのメイド喫茶の暗黙のルールである。

『生み出される世界』
「チリンチリン」 鈴がなった。 「はい、ご主人様」
素早くメイドの一人が反応してそのテーブルへ向かう。この店は大して広くない。むしろ狭いほうである。それにも関わらず、どの客も店員を呼ぶときは、この天使の羽をモチーフにした呼び鈴を鳴らす。他の喫茶店でありがちな、「おい」、「ちょっと」などとは決して言わない。
 これはまさに客と店員の両者が生み出す世界である。店員はメイド服を着て、客を「ご主人様」と呼び、つつましさを表現して、まさに“メイド”になりきるのだ。それに対して、客がいかにも“ご主人様”を演じることで、メイドの地位を確保するのだ。
さらにそれに加えて、この店の演出も一役買っている。砂糖と氷はハート型、あらゆる食器は天使で統一されているのである。お互いがご主人様・メイドになりきるような演出がなされた空間である。

 メイドの渉さん(仮名)に、普段からコスプレするのかと尋ねると、「いやそんなことないですよ。私服はロリータとかじゃなくて至って普通です」。更に「私もそうなんですけど、別の仕事してる人多いですよ」と教えてくれた。なるほど、生活の大半がメイドでは意味がない。普段は普通の服を着て、他の仕事で生計を立てる。しっかりとした日常があるからこそメイドになることを楽しめるのだ。
 私たちが席を立つと、「行ってらっしゃいませ。ご主人様」と深くお辞儀をし、メイドたちが見送ってくれた。、一歩店の外に出ると、メイド喫茶とは明らかに異なる普通の風景が並んでいた。
 コスプレ焼肉とは異なり、メイド喫茶では、今の社会にはびこる、短ければ、露出が高ければ「性」という方程式は通用しない。しかし見る側は当然のごとく、徹底的にメイドになりきった女性を目当てにくる。女性もそれを意識して徹底的になりきる。メイド服、メイド喫茶という場所、メイドであることを期待する客の視線、日常の生活。それらが相互に絡み合い、別人格への変身を可能にする。
posted by かじゅき at 20:49| 京都 ☁| Comment(5) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月04日

グループ研究 「コミケ編」

 まだ七月半ばだというのに、夏本番の強い日差し。照り返す太陽がまぶしい。目の前にはすでに長蛇の列が出来ている。ここは南大阪のじばしんイベントホールである。今日はここを会場としてコミケが開催されるのだ。私たちは戸惑いながらもその後に続く。まわりを見渡すと、みんな見た目こそ違うもののどこかしら似たような雰囲気が漂う。手には大きい荷物とそれぞれパンフレットを持ち、10時に開くはずのドアを今か今かと見つめている。・・・・・・・
・・・・・
・・・・・その中で、ひときわ目立っている女の子が目に止まった。一見、モデルと見間違うくらいの細くて長い足が鮮やかな水色のミニスカートから伸びている。上に羽織った長いオレンジのひらひら上着が、歩くたびに軽やかにゆれて、スレンダーな体型を強調している。そして極めつけは、いくつものみつあみを作った長い金色の髪の毛と色白の一重の顔立ちである。彼女のまわりには、不思議な雰囲気が漂っていた。彼女はとても知り合いが多く、歩くたびに声をかけたり、かけられたりしている。これが本城貴嶺さん(仮名)の第一印象である。彼女は若干18歳。その年齢には似つかわしくない、大人びた顔と、はきはきした喋り方。なぜ、彼女はコスプレをするのだろうか。
→@ここらへんまでは会場、レイヤーなどの描写から、本城さんに会うまでは問題なし。ただ描写は多いからあとで削るべし。それは全部作り終わってから考えよう。




「コスプレはただ単に自分が好きだからやるんです。家がコスプレ用の服を作っているっていう影響もあるけど、やっぱり自分の趣味かな。ちなみに今日のコンセプトはガンダムのラクスなんです」彼女の家は、「えんじぇる★も〜ど」というコスプレ制作のお店を出していて、主に通販で売り出しているという。今日も会場にはコスプレ用の服を販売するために彼女のおばあさんと二人で来ていた。彼女が堂々と会場内を闊歩するわけは、その着ている商品の宣伝のためでもある。しかし、それ以上に彼女はコスプレ、すなわち“違う自分”になれること自体を素直に楽しんでいるようだった。・・・・・・
・・・・・
・・・・・普通のピースはまずあり得ない。必ず自分がしているそのキャラクターを端的に表すことのできるポーズを作るのである。この貴嶺さんも例外ではない。何度か撮影に応じてくれたとき、決まって色々ポーズをつけてくれる。そこには照れなど生じない。カメラに撮られる瞬間、もう“自分”ではなく“本城貴嶺”としてそのキャラクターになっているからである。しかし、それは会場内だけに限られるという。会場の外でまで“コスプレ”をするのはルール違反。それはコスプレイヤーたちの間で暗黙の了解なのだという。
 →A変身願望について書いてるし良い感じ。うまいこと写真撮影は言ってるし、返信願望についても書いてあるし、日常とのめりはりっぽいことを書くんは「ファッション」は微妙。個性の話になるし。できたら、普段はバイト、コミケ意外には一切コスプレはもちこまんみたいなんで、めりはりつけてる話でもいいかも。






「コスプレはこういうイベントだからこそ楽しめるんです。普通の生活でもあんな格好してたらその楽しみがなくなるし、イベント自体の意味がなくなる。普段は普通に生活してますよ」そう話す目の前の彼女の服装はというと、真っ白のレースがついたピンクのブラウスに、ボリュームのある白の三段切り替えのレースのスカート。それにリボンがふんだんに使われている。これは彼女の私服である。俗にいう“ロリータファッション”では・・?と遠慮がちに尋ねると、「そうですよ」とはっきり答える。彼女曰く、ロリータはれっきとしたファッションであり、コスプレではないのだという。「なんかロリータやゴスロリをコスプレと思ってる人がいるみたいだけど、コスプレじゃなくてれっきとしたファッションなんです。だから街中でも堂々と歩けるし、ルール違反でもなんでもない。以前はいっしょくたにされてたけど、もう今は完全に分かれてるし、雑誌とかもようやく区別し始めたんです」そう言って彼女は不服そうに顔をしかめた。ロリータやゴスロリはファッションの一部に過ぎないのだ。改めて納得すると、街中の人々の反応を尋ねてみた。
「道歩いててもなんかすごい見られますよ。すれ違うときに『キモい』って言われたりとか。そういうのが一番腹が立つ。私だって流行ばっか追ってる人の服装を全然いいと思わない。全部人と同じだし。私の格好はどうせ社会に受け入れられないのわかってるんだから、せめて放っといてって感じですよね」
 Bやっぱり「ゴスロリ」の話は「個性」あるファッションみたいな説明に聞こえる。それではいかんやん??やから書き換えかなー??








彼女の言葉からは、現代社会に欠けつつある“個性”へのこだわりを感じる。他人にどう思われようが構わない。自分の好きな格好がしたい。人と同じなんて面白くない。他のコスプレイヤーはどうだろうか。会場内の、一人一人を観察すると、ある面白いことに気が付いた。彼らには法則がある。それは仲間を通じて、または協力して一緒にその作品を完成させようとすることである。例えば、「テニスの王子様」は六人である。すると六人必ず揃えているし、その中で彼らにはキャラクターの設定があり、キャラが被ることは決してしない。私たちは、通常仲がいい友達同士で“おソロ”にしているのを見かけたりする。まるっきり同じでない場合は“色チ”もあるだろう。しかし、この世界でそのようなことは通用しない。せめて自分の隣にいる人とはキャラを被らないようにする。しかし、人気のあるキャラクターなら必然的に他の人と被ることもあるだろう。
「確かに、レアキャラとかじゃない限り、メジャーなアニメはキャラが被りがちですよね。だからみんな最近アレンジするんです。ただし、あくまでもそのキャラの特徴とかは変えないんです。微妙に色を変えたり模様を変えたり。自分のオリジナルでそのキャラを表現するんですよ」彼女もまた「アレンジする」その一人である。人より常に半歩先に行きたい。コスプレしていても個性を出したい。そんな思いが彼女を常に動かせる。最後に彼女に質問した。今後コスプレはどうなると思う?
「今はまだコスプレは社会には反適合な感じがします。全体的に偏見の目とかあって認められてないっていうか。でも、これからどんどん広がると思います!もうすぐ社会に求められるんじゃないかな、コスプレが。そうなったとき、私たちを偏見の目で見てた社会を見返したいですね」にっこり笑って最後に彼女はこう言った。コスプレが社会に求められる時代―果たしてそんな時代は来るのだろうか。いや、もう近くまできているのかもしれない。彼女の言葉はそう思わせられるほどに、妙な説得力を持っていた。

 Cアレンジのこと書くならもっと批判的にいくべきかなって思う。
posted by かじゅき at 14:46| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月02日

グループ研究 「記事構成」

「制服系の話は浮くのか」

 シスターの班の後岡本さんが漏らした一言がずっと頭ににひっかかる。「私らのんて、論一本になってなくかい??」そのときは必死にとりあえず否定してみたけどもやもやは消えない。浮くならどこか。可能性としては二点。@は他がアニメ系やから一個孤立する風俗系 Aほかがフィールドワークやのに一個だけ講義の「メトロ学園」。Bそしてとってつけたようなファッション系。

 そもそも一本の論は何か。主張としては、現代の閉塞感を「コスプレ的思考」によって脱出する。もともとニーチェ持ってきたんも永遠回帰に続く生き方の模索としての「コスプレ」ということ。これがネタやとしたら、それを証明してくれたのはやっぱり「コミケ」。「コミケ」の中でも「コスネーム」による一段目の変身。「撮影スペース」の二段目の変身。嘘に嘘を塗り固める空間。それが当たり前に実行できる空間の魅力を語れる。
 それを補足するために「メトロ」はやっぱり使える。んで妙にオリジナルにこだわったり、「ポストモダン」への対抗心からアレンジ目指すやつを描写で皮肉る。もちろん「コスネーム」「アレンジ」「レイヤーの分化」の説明には利用する。

 「メイド喫茶」も定員のなりきりかたを利用すれば使える。バイト免罪符を利用してなりきる。それには客の行為も重要。客がいかにも「ご主人様」を演じることで、メイドの地位を確保する。それはインタビューしてないけど、描写でいけると思う。「店員に対して目を意識的に向けない客」。でも全くみてないわけでもない。でも見てはいけない。それが暗黙のルール。いやらしい視線を投げかけることなど許されない。まるでヴィクトリア朝的禁欲・自制の精神。この両者の了解によってこの場は変身の場となりえる。今の社会にはびこる短ければ、露出が高ければ「性」という路線ではない。でも「萌え」という形の「性」は存在する。もちろん見る側に。着る側もそれをわかってるからみつあみとかするんやろけど。

 ますます必要性が疑われる「焼き肉コスプレ」。これは使えるかどうか。みんなの意見も聞きたいです。「コスプレ的思考」とつながるかが問題。こうへいがいうように、ただバイトとしてって面が強い。俺らが提示する「コスプレ的思考」と意味あいはずれる。
でもややこしいのが完全にずれる訳ではない。っていうのもはじめに提示する「コスプレ的思考」は空虚な日常に意味合いをつける。「焼肉コスプレ」は意味合いをつけない。他のコスプレのように明らかな変身、演技はない。だって6人接客して全員けっこう素。キャバクラとかの作ってる感はまるでない。彼氏の話も平気でする。
 変身も演技も意味づけもないかもしれん。でも本人の思考の転換は達成される。お金のためとはいえ、自分の中で制服に「性」を全部背負わせる。なかなかそれは世間的に見たらそれは無理がある話。本人もそれは分かっている。だから彼氏、親、仲良くない友達には言えない。それはいくら本人が「性」を制服に任せても、見る側は必ずしもそうではないこともわかっている。
 でも本人の中ではそれが達成される。だからこそキャバと違いが出る。一般的な人からしたら、「キャバ」も「焼肉」も同様にやらしい。でも本人の中には、この二つの間には断裂がある。「コスプレ」の存在。やはりこれが大きい。「コスプレ」によって本人の中で「自己」と「性」を遠ざけることが可能となる。
posted by かじゅき at 20:02| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月01日

グループ研究 「レイヤード学園」

 一段落目は基本的に情景描写。やっぱりこういう文章うまいと思う。結果的に量が多いってなったら削ればよいしこれくらいの量で。

 2段落目。いわいるオタク特有のオタク臭さはないといいつつ、よくわからんコスプレに5万も使うあたりはオタクっぽいっていう面白さはある。別種としながら結局おたくっぽい感じが出てる。

 三段落目はOK.

 四段落目はいつもひっかかるとこやけど、日本特有なんかな??って不思議。一回納得してた気もするんやけど、アメリカとかも多様化・記号化されてる気もすある。日本びいきなレイヤーさん風に書いてもいいかなと思う。難しいけど。

 五+六段落目。Kの話にポストモダンの話出てき始めるやん??Kはどういう言い方してたか忘れたけどポストモダン系を皮肉ってた印象があるんよ。「衣装がすきなだけ」「キャラしらん」「ブームにのってるだけ」とかな。そういうポストモダンをけむたがるような描写できたらよいかな??って思う。文字化しなくても、そういう煙たがる姿勢がモダン系コスプレの人らの思想やし。自分は詳しいとか、オリジナル追求してるとかの勝ち負け根性をさりげなく書けるかなって。5段落でKのせりふ6段落でいやらしくない程度にKを俺らが皮肉る形を取る。

 基本的な流れは良い。セリフ中心に書いてポストモダンとモダンの分裂までいたったし。いかに後者が前者を煙たがるか。いかに後者が近代社会的かを書けるかかな。無理にいれなくてもよいし。
posted by かじゅき at 01:37| 京都 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月29日

タイフーンの中再取材

 グループ研究ぼつが出たということで再取材行ってきました。目新しいことを探すというより、状況描写やセリフを少し増やすことしなあかんってのが第一の目的。んで焼肉コスプレとかの風俗系コスプレの情報が少ないから2店舗目行って一回目が特殊事例になってしまってないかを確認するのが第二。んでできたら客の声も聞きたいってのが三点目。

 一点目はメイド喫茶が収穫。メイド喫茶の想像してたのをまんま再現してくれたって感じ。典型的でおもしろいから状況描写には使える。

 二点目はみんなと話あってないし、みんなそれぞれかもしれんけど俺の見解。@まず性として見られてることは認識してる。裏づけ発言としては「自分らだけで話す客はいやや。私いらんやんって感じやし」「言ったらひかれるし親とか彼氏には内緒」
 その上でキャバと焼肉コスプレにみんな境界線を引く。この差はたいてい「この一線は越えれへん」「携帯とか教えるんがいや。今の店でも聞かれるけどキャバとは違う」「けっこうかわいらしくしなあかんの嫌」など。Aキャバも焼肉コスプレも性的やとは理解してるけど、本人らの中ではコスチュームが性的やと割り切ってる感じ??説明下手かも。
 要は性的であるとわかりながら、性的に見られるんが嫌ながらも、服装に性の比重がかかってる感じ。

 三点目は客の話。直接は結局聞けなかったけど、だいたいの客が性を求めてやってくる。二人のやりとりで「パンツとかみられてないって」「いやいや絶対みられてる」とか、後ろの客が制服触るふりして制服まくりあげてたんとか見て「あのめがねやろ??あいつえろい。顔がうけつけん」とかも言ってたし。

 ってな感じかん。あとピーカンやる人いたら今日、明日くらいにゆーてや。さすがにぎりぎりはきついっすー。
posted by かじゅき at 23:36| 京都 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月29日

4 ファッション系コスプレ

4 ファッション系について

 これまで見てきたコスプレは非日常系コスプレである。つまり日常と非日常の境界がはっきりしている。日常というものに苦悩・空虚さを感じ、その一方で非日常に生を肯定する時間・空間を見出す。この境界の明瞭さにより、手軽に変身し、違う自分を演じることができる。一時的な変身である。
 それに対してここで提示するのはファッション系コスプレである。これは非日常系とは異なり、日常、非日常の境界がない。よって変身ということを意識しにくい。しかしながら日常のファッションにおいても、自覚的・無自覚的を問わずコスプレにより変身を行っている。ここでは「マイノリティー系」「プライオリティー系」に分けて話を進める。


4 ファッション系まとめ

 ファッション系は服装の裏に潜むイデオロギーを利用する。時にファッション系は社会的認知の低いイデオロギーを利用する。例えば「死」「お姫様」である。これらは社会から見れば空想的で、反社会的かもしれない。しかしこれらのイデオロギーを利用することで変身し、生を肯定することを可能とする。それは社会的認知の高いファッションでも同じである。例えば「お兄」=「かっこいい」、「Bボーイ」=「いかつい」などである。これらの認知の高いファッションの中にもイデオロギーがありそれを利用し、変身し、生を肯定する。
 しかしファッション系コスプレは、非日常系のように日常と非日常を明確に分けたりしない。よって手軽な変身、別人格を演じるといった感覚が生まれにくい。特に「プライオリティー系」はそうである。しかしこれらの服装の裏に潜むイデオロギーを利用する「コスプレ的思考」を身につけることによって、手軽な変身、別人格を演じるといった感覚が生まれる。
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2004年08月28日

4−1 マイノリティー系ファッシ 

4−1 マイノリティー系ファッション

 マイノリティー系とは、日常ファッションではあるが一般的に許容されてるとは言いがたい服装。人数が少ないというよりは、社会的なマイノリティーといえる。例えばロリータファッション、センターGAYなどがあてはまる。
 
これらのコスプレは、非日常系のアニメ系がキャラクターを利用したり、風俗系が性を利用したりするのとは異なる。
 具体的に話していくと、ロリータファッションでいうと厳密には2つのロリータファッションが存在する。1つは黒と白を主に使ったゴスロリといわれるロリータ。2つは白やピンクなど可愛い色を主に使った甘ロリといわれるロリータ。これらのロリータは、コスプレと一緒にされることを嫌がることや露出が少ないことから、アニメキャラクターであることを拒絶し、性を出すことも拒絶する。
 ロリータファッションが利用する価値は服装の裏に潜むイデオロギーである。ゴスロリでいうなら「死」というイデオロギーを利用する。服装は黒系が特に多いし、棺桶や十字架という「死」を意識するようなものが多い。音楽でいうと暗い歌詞を歌うバンドが人気を持つ。人気バンドの曲には「絶望」「死して魂」「茫然自失」など「死」と関わるタイトルが並ぶ。更に行動面ではリストカットや薬の大量摂取というものが価値を持つことも少なくない。ただし彼女らは本当の死を望まない。生を肯定する手段として「死」と向きあっているのである。
 ゴスロリファッションの裏に潜む「死」というイデオロギーを利用するために、同じ雑誌を買い、同じ場所に集まり、同じ趣味・行動を持ち、同じ服装をする。そして生を肯定する。それが甘ロリだと「お姫様」というイデオロギーを利用しているかもしれない。センターGAYなら「とにかく今を楽しむ」というイデオロギーを利用しているかもしれない。

 これらの「死」「お姫様」「今を楽しむ」というイデオロギーは一般社会から望まれない。現実逃避にも映るからからであろうか。よってファッション人口がある程度増えてもマイノリティーファッションとしての扱いを受ける。しかしこれらのように服装の裏に潜むイデオロギーを利用することで生を肯定している現状を見ると、マイノリティー系コスプレは単に批判されるべきではない。
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2004年08月27日

3-3 性の利用  

3-3 性の利用

 風俗型コスプレもアニメ系コスプレと同じ様に、空虚で苦悩に満ちた社会からの一時的な離脱、複数の自分を持つこと(変わりたい願望)を可能とする。異なるのはアニメ系コスプレがアニメのキャラクターを利用して別人格を演じるのに対して、風俗系コスプレは性を利用して別人格を演じることを可能とする。

 プライベート(カップルなど・・)の風俗系コスプレでいうと、コスプレ=性的という記号を利用することで、性を解放することを容易にする。つまりお互いがコスプレによって性を解放する場と認知できる。コスプレは変身のきっかけを与えるのである。日常であまり解放できない性を解放することで、日常とのギャップから別人格を演じている感覚になる。
 またバイト(風俗など・・)の風俗系コスプレでいうと、コスプレ=性的という記号を利用することで、・・・・・・・・(ここはまとめるん難しい。みんなの合意もないところやし。こうへいの手腕に任す)

 これらの風俗系コスプレができるのは性と自己が結びついていないからである。そもそも自己というものにあまりこだわりがない。だからこそ性を利用し別人格を演じる。逆に性と自己が結びついていると、性を利用して別人格を演じることはできない。自己を強く意識する人は複数の自分を持つことは難しいからである。
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2004年08月26日

3-2 風俗系コスプレの推移  

3-2 風俗系コスプレの推移

 風俗型コスプレとは、私たちが一般的にコスプレと認識するタイプのものである。例えばナース、スッチー、警官、女子高生、メイドなどである。不思議とこれらのコスプレには性の存在がつきまとう。どの世代においてもコスプレに性を感じる。しかし世代によって風俗型コスプレに対する性の感じ方に違いがある。

 上の世代と下の世代では、コスプレに対する性の感じ方が異なる。上の世代は下の世代と比べると、性に対して禁欲的な時代をすごす。つまり純愛・異性愛など典型的な性のあり方を強要され、性に関するタブーが多くあった。しかしその禁欲的な性のあり方に満足できない人も出てくる。禁欲的な性のあり方の反動として、性に関するタブーを破ることに快楽を感じる。その対象となるのが性からほど遠く、純潔で、性的であってはならない存在である。その性的であってはならない存在が、性的対象となることに性を感じるのである。
よって見る側にとっては、着る側の人格が制服と同等もしくはそれ以上に重要になる。つまり単に制服が女子高生でも意味がない。外見同様、中身である人格も女子高生であることが望まれる。よって上の世代にとってコスプレは制服と人格が一致することで性を感じることが出来る。

上の世代に比べると下の世代は性に対して寛容な時代をすごす。純潔や異性愛などの典型的な性のあり方が上の世代のように通用しない。よって上の世代のように禁欲的な性のあり方の反動として、性に関するタブーを破ることに快感を覚えることが減る。
ではなぜ下の世代がコスプレに感じるのか。それはコスプレが性的記号として成立しているからである。上の世代はタブーを破ることに快感を感じ、コスプレを性的なものとした。そしてそれは継続され、規模も増えるにつれ、少しづつ人々の中でタブーを破るということが忘れられ、コスプレ=性的という関係が成立していった。よってコスプレ=性的と認知する下の世代下とってコスプレがなぜ性的であるかを問うても、合理的な回答は返ってこないだろう。
よって見る側にとっては、着る側の人格が制服以上に重要になることはない。下の世代にとってコスプレに人格はさほど関係なく、制服それ自体に性を感じる。よって性(コスプレ)と人格が結びつくことがない。

posted by かじゅき at 07:55| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月25日

考察

 我々はこの論文を通して、多くの人から奇異のまなざしを受けるコスプレについて考察してきた。そしてコスプレは異常ではなく、正常な行為という結論に至った。

非日常コスプレでいうと、アニメ系コスプレ・風俗系コスプレは今だに奇異のまなざしを受けることが多い。しかし異常なことではない。量的な面でいうと、アニメ系コスプレでは○○万人規模があるし、風俗系コスプレでは○○円規模の市場がある。決して少ない規模ではなく、見過ごすことができない規模である。質的な面でいうと、1・2・3章で述べたように近代社会における「自己同一性」、「上昇志向」というものから逃れるという意味で、また空虚で苦痛に満ちた近代社会で一時的であれ生を肯定するという面で非常に意味がある。
現在正常と位置付けられる儀礼系コスプレと比較してどうだろうか。例えば成人式。量的にはほとんどの人が経験する。しかし質的な面でいうと、半ば義務化した単なる形式的行為になっている。現在異常とみなされているアニメ系・風俗系コスプレの方が質的には意味があるのではないか。

日常系コスプレでいうと、「マイノリティー系」だけがコスプレ的と見なされ、異常とみなされる。しかし「マイノリティー系」と「プライオリティー系」の差は社会の認定の程度差にしかすぎず、極めて同じ地平である。非日常だけでなく、日常のファッションからでもコスプレは常に行われているのである。

ただし日常系・非日常系ともに、単にコスプレをすれば良いとういう訳ではない。コスプレをしてもファッション型コスプレのように「自己同一性」「上昇志向」にとらわれることもある。またモダン系コスプレのように非日常社会に近代社会的思考を持ち込むかもしれない。さらに近代社会に空虚さ・苦悩を感じない人にとっても意味はないかもしれない。
しかし空虚で苦悩に満ちた世界からの一時的な離脱、「自己同一性」「上昇志向」からの逃避、生の肯定を望む人々にとって、それらを可能にする『コスプレ的思考』を身につけるきっかけとしてコスプレをする価値があるのではないだろうか。
posted by かじゅき at 17:14| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月17日

新1-4 『コスプレという変身』

1-4『コスプレという変身』

 『永遠回帰』という生き方が出来れば生を肯定して生きられる。しかし空虚さ・苦痛を感じる世界で、なお生を肯定することは難しい。根本的に世界や生に対して否定的であるからである。現在では「物語」が消失し、世界の空虚さを多くの人が感じ始めている。

 ここで空虚・苦痛を感じる人たちが逃避の手段として用いるのが『コスプレ』という変身である。変身になぜ衣装が必要なのか。これは絶対的に衣装に依存するわけではない。衣装なしで変身することも可能である。しかし衣装というのは外見を変容させ、周囲からの認識を簡単に変えることが出来る。周囲の認識が変われば本人の認識も変わる。外見と内面は相互作用するのである。よって衣装を促進するという役割を果たす。

では変身の意義とは何か。それは空虚で意味を見出せない日常(俗なる世界)に対して、無理やり意味づけたり、肯定したりすることは難しい。だからこそ空虚で意味を見出せない日常から脱するために『コスプレ』を行う。『コスプレ』は非日常(聖なる世界)に参入するための儀礼行為である。その儀礼行為を通して日常を意図して忘却(健忘)する。そして非日常において生を肯定し、意味を見出す。
ここで注意が必要なのは、@非日常に<自分>や「上昇志向」を持ちこむことは意味がない。それは結局、別の社会に近代社会を作り上げるだけである。A全てを忘却することは許されない。ここでいう変身は日常に戻ることが前提であるからである。人は複数の社会を生きなければならないのである。
しかしながら、『コスプレ』は一時的であれ<自分>や「上昇志向」という近代的思考から逃れ、一時的であれ空虚で苦悩に満ちた世界を肯定すことができるのである。

 
 

posted by かじゅき at 21:44| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

新1-3 『空虚な世界への2つの態度』

1-3 『空虚な世界への2つの態度』

 生に苦悩を感じる人は、2つの根本的態度をとりえる。1つはルサンチマンから世界と<自分>の否定という態度。2つに巨大な苦悩にも関わらず生を是認する態度。ニーチェは前者は生への欲望を卑小化させ弱体化させる。後者は生への欲望を高貴にし、尊厳あるものとする。

 ここで問題なのが「卑小な人間」や「弱者」が『永遠回帰』をすることが可能か。もともと「高貴な者」や「強い人間」はルサンチマンを克服する力を持つ者のことである。ここに『永遠回帰』の最後の関門がある。
 ニーチェはそれに対し「もし私たちがたったの一瞬に対してでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、全ての生存に対して然りと断言したのである」と答える。たった一度でもほんとうに深く生を肯定できる瞬間があれば、人は「無限の反復」を欲するという可能性を持つという。

* ルサンチマン思想とは?
・ 「願望と信仰」から、全ての人間が「平等であったらよいのに」や、「平等であるべきだ」という考えから生まれる嫉み、復讐心。人間の平均化は、互いに自由を束縛し、虚弱化した制度を作り出すことになる。自らは上を目指す一方、他者が上にいくことを嫉む。(キリスト教的システム)
・ そういう意味においてニーチェは強者と弱者の秩序が存在することを是認することが大事だという。
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2004年08月16日

新1-1 『近代社会の苦痛』


1−1 『近代社会の苦痛〜<自分>「上昇志向」〜』

 なぜコスプレをする人が増えているのか。それは人々が近代社会に苦痛を感じているからである。
 

では近代社会とは何か。それは「今の自分に満足できない」「今よりもすばらしい自分になりたい」。常にワンランク上の<自分>を目指したいという欲望は、誰しも抱いてるのではないだろうか。このような<自分>や「上昇志向」を強く持つことが近代的だといえる。
 
近代社会は「個人主義」というものを生み出した。「個人主義」の出現により人々は自由が増え、伝統の命ずるところに従う必要はなくなった。しかし「個人主義」の出現は、今まで無意識に<自分>というものを意味づけてくれていたキリスト教的価値を失った。そして近代はキリスト教的価値の代わりを打ち立てられずに、キリスト教的価値を「道徳」や「真理」というものに変装させながら生き延びさせた。近代以降はニヒリズムがにじみ出ることになる。
よって人々は意識的に自分で<自分>の存在を意味づける必要が出てきた。近代社会はニヒリズムが充満する。人々は常に生存の無意味さに不安を持つ。だから人々は<自分>や<個性>というものに敏感になり、常に<自分>を意味づけようとする。

更に近代社会は、<自分>というものの上に「上昇志向」というものがつきまとう。M・ウェーバーによると近代的精神の中核をなすものは、プロテスタンティズムの宗教的教えから生まれた「世俗的禁欲」と呼ばれる生活態度である。「世俗的禁欲」とは、「常に目標に向かって努力し、全てを犠牲にしてでも目標達成しなければならない。更に1つの目標が達成されれば次の目標に向かい、更にまた次の目標に向かって努力することを求められる」のである。つまり終わりのない努力である。
 これらの禁欲は食欲や性欲といった欲求を抑制するにとどまらない。「世俗的禁欲」は自己審査・自己統制を、消極的・受動的でなく、積極的・能動的に行う。あくまで強制でなく自発的に行う。人々は<自分>を厳しく律しながら、常に目標を持ち、常に目標に向かい努力するように、常に「上昇志向」を持つように扇動される。 

*ニヒリズムとは・・伝統的な既成の秩序や価値を否定し、生存は無意味とする態度。
posted by かじゅき at 00:00| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月12日

1-4「変身という手段」 1-5「衣装の力」

はぁー。今日(11日)はすんごく頑張った。俺すげー(笑)昼の10時起床。そっから夜中の3時まで17時間勉強してやった(><)。
 ニーチェ読む、焼きそば食べる、かふか読む、ニーチェまとめる、ぐろと電話、ニーチェまとめる、デザート食べる、明日のオファー円滑に進めるために800字レビュー改訂版を3つ作成、報道ステーション見る、ブログに書き込む、800字レビュー読む。今勉強意欲最高です。

 こののりで藤岡ゼミの『ピーカン』参加したい人っている??12日(木曜日)の昼間に正式にオファーが来るそうです。テーマも人数もまだ聞いてないんやけど参加意欲ある人は言って下さい。特集を組んでもらえるらしいので気合入れてやる気です。仕切る気も満々です。

1-4『変身という手段』

 『永遠回帰』という生き方が出来ればより生を肯定して生きられる。しかし「ルサンチマン」を持つ人たちが『永遠回帰』をすることは難しい。根本的に世界や生に対して否定的であるからである。現在では真理・道徳の空虚さを多くの人が認識し始め、ルサンチマンを持つ人がより増えたのではないか。

 ここでルサンチマンを持つ人たちに提示したいのが『変身』である。空虚で意味を見出せない日常(俗なる世界)に対して、無理やり意味づけたり、肯定したりすることは難しい。だからこそ空虚で意味を見出せない日常から脱するために『変身』を行う。『変身』は非日常(聖なる世界)に参入するための儀礼行為である。その儀礼行為を通して日常を意図して忘却(健忘)する。そして非日常において生を肯定し、意味を見出す。もちろん全てを忘却することは許されない。ここでいう『変身』は日常に戻ることが前提であるからである。しかしながら「健忘」と『変身』をたくみに使いながら、生を肯定し、意味づける方法は良い方法である。

1-5『衣装の力』

 『変身』になぜ衣装が必要なのか。これは絶対的に衣装に依存するわけではない。衣装なしで『変身』できる人もいるだろう。しかしながら衣装っていうのは外見を変容させ、周囲からの認識をてっとり早く変える。周囲の認識が変われば本人の認識も変わる。よって本人にとって影響力は強い。外見は内面に作用し、また内面は外見に相互作用する。非日常をすごすときの他者認定と自己認定の役割を果たす。
 

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2004年08月11日

パロディーについて

ジョン・フィクス『パロディー論』

1.パロディーとは
・一般には他人の作品の構成や文体の特徴をまね、滑稽さを増すなど操作し、もとの作品をからかうこと。しかし音楽や文学における(引用)など、からかいを目的としないパロディーも存在し、芸術の本質論に関わる。(百科事典より)
* 前者はお笑いの物まねが当てはまる。ここで問題とするのは後者のパロディーである。

2.パロディーの方法
・オリジナルの権威、伝統、憧れ、正当性を誇張、欠落、変形させること。
*1コピーとは異なる。コスプレでいうアレンジに当たるのか??

3.パロディストへの憧れ
 前提:マドンナはパロディストの代表人物
   *2マドンナファンまたはオタク型はコピー?パロディー?
・パロディストのファンに対する一般認識=文化中毒者
             ↓しかし
@ イデオロギー統制のすり抜け
A 中心的価値(権力、視線)への抵抗
B 自己決定の感覚(自己、性、対人関係)

4・パロディーの意義
(1)中心価値への抵抗
  ・一般社会のシンボル体系(十字架=宗教的)を自分流に解釈し(十字架=美の象徴)、一般社会の既成の記号表現を使いながら一般社会の記号内容を拒絶し、あざけり笑うことで、自分の力で自分らしく生きることを可能とする。
   *3AV型に当てはまる??一般的価値ナース、スッチーなど性的でないというイメージを、自分なりに解釈し意味合いを変える。そして自分の力で生きることを可能とする。(コスプレ焼肉を思い出すと良い)
   *4オタク型は当てはまるのか?

 (2)中心価値の提示
   ・パロディーによってオリジナルをずらすことによって初めて中心的価値を明ら
    かにする。そして従来の中心的価値に疑問を与える。
    (例)唇より大きく塗る口紅→この違和感が口紅の適度な量を提示する
       宝石をじゃらじゃらつける→この違和感が宝石の適量を提示する
posted by かじゅき at 00:00| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月10日

1-2 改定『永遠回帰』

 1−2『永遠回帰』

 では絶え間のない「自己アイデンティティー」の確認と「上昇願望」から逃れるためにはどうすれば良いのだろうか。

 それのヒントになるのがニーチェの『永遠回帰』の概念である。『永遠回帰』には3つの側面がある。@機械的思考の極限形式。世界はまったく同一の状態を永遠に反復しているという観念である。『永遠回帰』を「エネルギー恒存の法則」と照らし合わせる。つまり世界の有限性+エネルギーの有限性という2つの根本命題を含む。時間そのものには始点も終点もなく、世界は永遠回帰すると考える。わかりにくい人は摩擦のないビリヤード台を思い浮かべると良い。台=世界、玉=人、そして台の中で玉は動き続ける内にどこかで同じ順序と脈絡で反復する。
 このような機械論的思考は伝統的世界観を破壊する。(A)世界は神が創造した。よって世界には意味がある。(キリスト教的)(B)世界は進歩、発展する。(近代哲学的)(C)世界には始まりがある。(唯物論的)などの世界観を停止させる。つまり「超越的」な価値観を全て禁じ手にし、世界を是認するのである。

 Aニヒリズムの極限化。@の反面として、世界は始まりも終わりもなく、したがって動機も目的もなく、永遠運動する機械のようにただ存在しているにすぎないという思考を生む。世界の外側に超越的な意味もなく、「死んだら終わり」という感覚を持たせる。
 逆に「生きてるあいだは・・」という観念も生まれるが、『永遠回帰』は「生きてるあいだは・・」という観念を認めず、「何をやっても一切は決定されている」という観念である。このように『永遠回帰』はニヒリズムを極限化するのであるが、それ以外にニヒリズムを克服する術はないとニーチェは言う。

 Bルサンチマン克服、生の肯定。『永遠回帰』は単に根本的価値転倒のための思想でなく、価値創造にも関わる。ニヒリズムの徹底の果てに現れる「聖なる虚言」、つまりこれまでとは異なる新しい「価値創造」の原理である。キリスト教の「虚言」は生を否定し、信じれば救われるといった「救済の物語」であった。それは新しい神を作り出すことになる。「聖なる虚言」は生を肯定し、超越的なもの(神)の復活を拒絶する。そのことが生の「是認」から「肯定」へと進む。  
 
posted by かじゅき at 04:17| 京都 ☁| Comment(11) | TrackBack(0) | ゼミ<コスプレ> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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