2005年04月26日

ぼこ〜ん

どえらい事件が起こった。みんなも知ってるやろうけど、電車が「ずこーん」て脱線した事件。電車が「しゃいーん」ってスピード出して、「ぐわーん」てビルに突進。そんなニュースが「じゃんじゃん」流れる4月25日の月曜日やった。

どのチャンネルも同じような映像。夕方のニュースも終わり午後7時を迎えた。なーんか一気に普通の番組が流れ出す。俗にいうゴールデンタイム。ようは何が視聴率取れるかの問題。ブラックジャックかもしれんし、テレビで事件解決する番組かもしれん。

てか俺が「ぷんぷん」したのは、その事件解決する奴。番組の冒頭で「被害者の方にご冥福がどうたらこうたら」言ってた。てかこの言葉、言葉通り受け取ることは出来ひんかった。ようはその番組の売りは「リアルタイム」による臨場感。アクシデントを装って、あらゆる形で「リアルタイム」を視聴者に押し付ける。

今日も一緒。冒頭に今日の大きな事件に触れることで「リアルタイム」を強調。ようはキー局の番組にとって地方の事件は、番組の臨場感をかき立てるための道具でしかなかったのかもね。これは深読みですかね><

まぁ関テレは月曜ずーっとやってる「えみーご」を辞めてまで報道を続けた。別にそれで新しい発見があったわけではないけど、こういう時間帯こそ報道を続けると判断したことを評価したいと思う。

また読売テレビが事故情報(死傷者数やJRの対応窓口の連絡先、収容病院など)をテロップで流していた。

そんな在阪の局がいつまでこの事件を扱い続けるかに注目していきたい。出来ればワイドショーではない形で。



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2005年03月22日

見切り発車

色々みんなの意見を聞いて悩んだ。Aの方が票は多く入った。それは、Aの内容を評価されたものやった。でもBを選んでくれた人の意見もひっかかる。それは「私と新聞」という形式の面で強くひっかかった。俺が添削者やった場合明らかに使いまわし的に感じるのはテーマとづれている時。やから今回はまずテーマに答えるという意味でBで行く。自分と新聞の関係で書いてみる。

んで1通り書いてみる。よく考えたらBでも記憶メディアでいいやんってことにも気付かされる。800字て難しい。1つの筋だけで行くと若干長い。でも2つの筋で行くと若干短い。とりあえず2つの筋でいってみた。つまり5段落構成でっす。

【新聞と私】
新聞とは、その日に起こった事件や出来事の記録を早く・正確に多くの人に伝える社会的責任を持ったメディアです。しかし、私と新聞の関係はそれだけではありません。

私は、小学生のころ野球をしていました。一度だけ、試合の翌日の新聞に載せていただいたことがあります。その日ばかりは、家族、親戚、友人などからたくさん電話がかかってきて、嬉しい言葉をいただきました。新聞の力は、人を結びつけることが出来ます。子供ながらに、自分のしていることが、たくさんの人に認められる喜びを感じたことを覚えております。そして、今もその色あせた記事を見返すと、当時の思い出が鮮明に甦ってきます。その記事は、まさに御社のものでした。

テレビでは、同じようにはいきません。なぜなら、テレビは、時間や場所が制限され、多くの人が情報を共有出来るとは限らないのです。更に、人々に情報の選択の余地はなく、ただ一方的に情報が流れてくるので、小さくインパクトがない情報は記憶に残りません。そして、その情報は録画していない限り記録にも残りません。

逆に新聞は、好きな時間、好きな場所で記事を読むことが出来ます。そして地域に根ざすことで、多くの人と情報を共有でき、記憶に残ります。そして何より、自分の成長とともに色あせていく記事が、手元に残ります。新聞は、「人と人、人とことを強く結びつけることが出来るもの」だと思います。毎日、空気のように当たり前に、そして能動的に触れ合っているメディアだからこそ、現代人の最も根底的なレベル結び付けます。

私にとって新聞は、インパクトのある大きな事件や出来事の表面だけを、次々と投げつける「throwな記録メディア」ではありません。インパクトがなく小さな事件や出来事であっても、しっかり伝え、何年たってもみんなで味わうことの出来る「slowな記憶メディア」です。

*起の始まり方が明らかに下手。んーどうしよう。
*承は文章力のなさを露呈
*転を1と2にわけるのは失敗か?あえて新聞とテレビで展開せずに、転を新聞だけで構成するべき??
*転から急に論文化しすぎ?何か作文書けない病が治ってません。
*転を減らして、承をもっと増やすか。

とにかく見切りで書いてみたけど、何かしっくり来ない。何でかは自分なりには上記の理由。何か思いつくことあればゆって下さい(`・ω・´)ゝ
posted by かじゅき at 14:41| 京都 ☔| Comment(5) | TrackBack(1) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月18日

京都新聞社

京都新聞社で800字の作文があります。テーマは「新聞と私」。それをどっちの構成案で行くか悩んでいます。何せ第一志望。普段意見を聞かないおいらでも悩みます。起承転結で構成するとこんな感じです。
まぁ、作文で使わない方は志望動機のとこで使うつもりやけど、何せ文字が800字と300字くらいやし、作文に印象強くなりそうなんを使いたい。ということで・・
@ 単純にA作品かB作品どっちが良いか投票して欲しいです。
A 今まで書き込んだことない人もいると思うし、匿名やペンネームでも良いし投票して欲しい。
B 暇な人(暇な奴はいねーな。暇な振り出来る人)は、理由も書いて。
C 更に暇な人は提案などもして下さい。
最近ますます地方新聞への魅力が強くて何とか先に進みたいんで、アドバイスお願いしまっする。
テーマ:【新聞と私】

【A作品】
起 なぜ人は事件や災害などを忘れていくのか。
承 新潟の自信にかき消された、京都北部の災害の例
転 私たちの敵は、「災害」ではなく「忘却」。
記録でなく、記憶に訴えなければ忘れられていく。
  新聞は、地方の問題、小さな問題を映し続けるものであらなければいけない。
  でなければ、全ては大きな情報に支配される社会になる。
結 私にとって新聞は、「記録装置」でなく「記憶装置」です。

【B作品】
起 新聞はただ事実を運ぶメディアなのか。
承 小学生のとき新聞に載って、多くの人から賛辞された例
転 情報を伝達するだけが新聞の役割ではない。
人々の喜びや悲しみといった目に見えないものを伝え、
人と人、人とことを根底の部分で結びつける。
色あせた新聞に、思い出の蓄積を感じる。
結 私にとって新聞は、ただの「事実伝達装置」でなく「感情伝達装置」です。

posted by かじゅき at 16:43| 京都 ☀| Comment(16) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月06日

プロと絡んできました

 はい。今日は制作実習の「大間さんを囲む会」でした。しかしながらいい予感がしない。というのも合宿色が強いだけに、合宿に来てない人は来ない。合宿来てる人でも来にくい。先週行くと言った手前、なおきちと相談した上行くことにしました。
 6時集合。やはりというか何というか生徒は二人だけ。覚悟の上とはいえ二人だけ。あたりを見回しても二人でけ。ピーカンの藤岡ゼミは、仕上げに追われてるらしく、こーへい君は東京らしく、大黒君は忘れてたらしく。
 女優二人、黒瀬先生、大間さん(脚本家)、俺ら二人というディープな飲み会。でもなかなか人数少ないからこそディープな会話できまちた。早めに飲みまくったのが正解やった。飲むとテンションあがるから。とえりあえず良かったれす。
 帰りに大間さんと帰りが一緒やったんで、上新庄で飲んでました。終電ぎりぎりまで話してました。やっぱりモチベーションの持ちようは違うと思いました。
 
posted by かじゅき at 00:00| 京都 | Comment(1) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月16日

行列のできる法律相談所

 一応マスコミ専攻なんで視聴率というものにはある程度関心を持ってます。不思議に視聴率を取ってる番組がある。それは『行列のできる法律相談所』である。特に『トリビア』ほど流行を巻き起こしたわけではない。同じような番組『THE・ジャッジ』はだめだったみたいなのに。不思議だにー。2つの番組は共通点が多い@司会者がビッグネームA6〜8人のレギュラーがいるB弁護士が出るC日常の出来事を扱う。

 『行列の出来る・・』、『THE・ジャッジ』、『ワイドショー』など最近非常にB弁護士が出るC日常のトラブルを扱う番組が人気を持った。従来のクイズ系番組と異なる点が3つある。
 (A)従来のクイズは固まった言説を利用することが多かった。つまり現在の出来事の問題でなく、過去の出来事・歴史などを問題にする。そして固まった言説を利用することで、解答が1つしかなかった。しかしこれらの番組は、今の出来事を扱う。固まった言説を利用しないことで画一的に答えがないということが大事になる。(B)従来は本人が存在しない問題が多かった。しかしこれらの番組は直接的に本人が存在しそうな問題ばかり扱う。これは政治の話にもつながるのではないか。

ではなぜ『行列のできる・・』だけが今なお人気を保つのか。(A)答えを持つ権力側(弁護士)を4人にした。このことで画一的解答になることを防ぐ。それにより権力が提示する回答が絶対的なものから相対的なものになった。(B)権力側と司会者との対決。権力側が法などを利用して語るのに対し、司会者側は日常の感覚を持ち出し語る。いくら権力が正当に語っても、司会者側が力を持つ。この場では司会者がもっとも権力者である。
 視聴者はこのように権力者との権力関係を逆転したいという欲望がある。現実で権力を持つという欲望を断念している大衆。その大衆がクイズ番組という枠の中で権力を逆転させる快感が受けて『行列のできる・・』は人気を持つのではないか。
posted by かじゅき at 22:44| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月14日

報道ステーション

 あー学校ないから一日外出てねーや。好物のケンタッキーを買いに行っただけ。なかなかのひきこもりっぷりやわー。夏ゼミの『想像の共同体』をちっと読んでみた。なかなか難しいねえ。レジュメ担当のぐろ君頑張ってなぁ。あっ!後制作実習の金出しに行かなあかんわ。制作とってる人は忘れないよーに♪

 んで昨日の続き。国民と政治の距離を縮める役割、国民の居場所を確保する番組として「報道ステーション」を提案した。裏ゼミの奥本論+先生からちょうだいしたネタまじえ書きます。

『報道ステーション』司会の古館はまぎれもなく感情型キャスターである。普段流れる日常のニュース・スポーツニュースなどでは、軽いのりで面白いおっさんのように語る。逆に政治ニュース・悪いニュースなどでは、軽いのりを自粛し知識人のように語る。いずれにしろ古館は自分の感情と世論の流れを照らし合わせながら、いろんな古館になり感情を表出し、コメントをする
 しかし感情型キャスターにも落とし穴はある。それは「悲しみ」という感情の表出の難しさである。純粋に「悲しみ」だけを語ることは難しい。殺人事件ならば、加害者への怒りと関連させることで「悲しみ」を語る。有名人の死であれば、過去の栄光や物語と関連させることで「悲しみ」を語る。しかし加害者への怒りもなく、有名人でもないとき感情型キャスターは窮地に立つことになる。つまり「悲しみ」を語れない。
 例えば6月1日の長崎女子児童殺人事件。ニュース映像が流れたあと古館のアップになる。古館は3秒ほど小さく低い声でただうなる。そう古館には純粋に「悲しみ」を表現する言葉がなかった。だからうなることで「悲しみ」を表現しようとした。もしこれが普通のキャスターであればたんたんとあたりさわりのない意見を述べてやり過ごすことができる。しかし感情型キャスターはそうはいかない。感情型キャスターは、それを売りにすることで視聴者に感情型と認識される。そしてそうあることを望まれる。だから感情型キャスターは感情的意見を述べることを暗に強制される。あたりさわりないコメントが許されなくなるのである。
 
 逆に感情型キャスターの売りは「怒り」である。なかなかキャスターにはマッチしない感情。ニュースステーションの久米は近いものがあるが、皮肉のスタイルである。所詮は知識人側からの意見にすぎない。国民と久米の間にはまだ距離があるのである。
逆に古館はよく怒る(怒っているポーズかも)。これは国民をひきつける。代弁してもらっている感覚が生まれる。政治の場に国民の姿が見えやすくなる。古館の怒りは計算されている。ただ古館をやかましいって言って非難する人はそれを読んでないと思う。

結局、感情型キャスターが不必要という訳ではない。むしろ必要である。それは1つには大衆を政治の世界に興味を持たせる役割を果たす。かたいイメージを少しでも軽減することで政治への関心を増やす。2つに世論の反映の役割を果たす。感情型といっても世論を無視できない。むしろある程度世論の動向を見ながらコメントしているといえる。それによって大衆は政治への影響力を身近に感じられる。NHK型ニュースが視聴率をとる中で感情型キャスター古館は、感情型であることの落とし穴を理解した上でなお感情型キャスターであって欲しいものである。
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2004年07月13日

選挙について

 日曜日選挙があった。民主50議席、自民49議席という結果。俺には自民が勝ちか民主が勝ちか詳しいことはわからない。小泉、安部の責任論についてもわからない。あえてそうゆうことは政治評論家に任せることにしよう。目についたのは@民主党の躍進A投票率のことである。

 衆議院も参議院も結果的に民主党が躍進した。しかしその躍進は自民が大幅減した訳ではなく、他の野党が現象したぶんの大幅増加である。二大政党制というはっきりした流れ。
 ここで感じるのは話がわかりやすすぎる。今回だけでなく最近はわかりやすい話が多すぎる。自民か民主か、郵政・高速民営化か否か、年金未納か否か、北朝鮮問題、イラク問題など。本来ならわかりやすくなるはずのない話がワンフレーズで語られる。そして二者択一の選択がせまられる。選択肢が多いとわかりにくいからである。
 小泉流のわかりやすさ主義が支持を得たことがこの流れを促進する。議員だけでなく、メディアも分かりやすいものばかりを扱うようになる。不景気による閉塞感が大きく影響を及ぼしている。

 しかし問題は投票率が上がらないことである。なぜ現在が悲観的かというと議員・メディアがこれだけわかりやすい主義作戦を展開しているにも関わらず投票率は上がらない。これは制度の問題ではないと思う。投票制度・日程などの制度を充実させても状況は根本的には改善しない。投票に行かない人の多くが議員・メディアの流す情報に違和感を感じているのではないか。
 その違和感とは現実と情報の分離である。現実は政治・経済の問題は簡単にできるものではないことを国民も感じている。にも関わらず議員・メディアは現実と分離したところで簡単にして情報を流す。国民はそのズレを無意識的に感じ取っているのではないか。そのズレに無頓着なのはむしろ送り手の側ではないか。

 これからはどうすれば良いのか。議員はもちろんしっかり国民に働きかけるべきである。しかし議員と国民の距離はやはり遠い。頑張るべきはメディアである。現在は情報の扱い方が極端に二分化する
 1つはさきほど述べたわかりやすい主義である。しかしこれは現実と分離し、国民に違和感を抱かせる。見せかけのわかりやすさは通用しない。国民と議員の距離を感じる。極めてバラエティー的である。
 2つは逆にわかりにくい主義である。難しい現実を難しいまま提示する。わかる人だけわかれば良いスタイル。国民全体がこの情報を理解できるなら改善の必要はないかもしれないがそれは難しい。情報を理解できない国民には居場所が感じられない。朝生スタイルだろうか。
 目指すべきは現在投票に行かない国民の違和感を取り除くことである。難しい話をできるだけ現実と分離しないようにして情報を提示する。国民と議員の距離を縮め、国民のとしての居場所を提示し、そしてもっと政治・経済への興味を持たせることである。その可能性を見せる報道ステーション・テレビタックルなどの番組があるのではないだろうか。次回は報道ステーションについて。
posted by かじゅき at 02:00| 京都 | Comment(0) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月24日

フィクションとノン・フィクションの境界

制作自習の絡みで書かせていただきます。当面は毎日書きたいという欲望があるもので・・・。
 基本的に完全なノン・フィクションは存在しない。カメラの位置、画格、時間など1つ決めるだけでそこにはフィクション的要素は確実に存在する。インタビューの仕方、編集などの仕方なども考えるともはや自然を映すだけのものとは到底いえない。確実に送り手の意図を反映する。よって私たちがどのようにして現実・社会を切り取ろうとしているかはフィクション、ノン・フィクション問わず必要である。またノン・フィクション=取材対象次第ではない。ある意味では良い取材対象と出会うことはラッキーである。しかし出会うことがなくても良い作品は作れる。それは送り手の社会を切り取る意思と、丹念に練った仮説、事前調査などである。
ノン・フィクションの中でいかにしてフィクション的要素を活かすか。私たちは送り手になる意思があるのであれば、やらせ、やらせでないの議論は意味を持たない。送り手の世界ではもはや、フィクション、ノン・フィクションの境界は便宜的なものでしかない。フィクションという手法は送り手になる以上は自覚して取り組まなければならない。
posted by かじゅき at 20:57| Comment(0) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月23日

音の力

 今日制作実習の音入れをした。先生のヘルプがあったので4時間ほどで仕上がった。いなかったらやばかったっす。作品は、音入れる前でも結構良かったと思ってたのに、音を入れるとなお良い。何が違うのか。それは「恐怖」の度合いだった。音入れ後の作品はまじで気持ち悪かった。ってことで今日は音と恐怖について述べちゃいます。
前提:「オンの音」=映像とリンクした音、「フレーム外の音」=フレーム外から聞こえる音、「オフの音」=映像と関係ない音
まず音の力を最も感じたのが意外な事に「沈黙」である。表現が正しいかは分からないが「無音」とは違う。「無音」は、全ての音が消えている状態である。沈黙は「オフの音」がなく、「フレーム外の音」がかすかに聞こえると考える。この「フレーム外」の音は、特に恐怖を掻きたてるような音が入る訳ではない。音はごく一般的な生活の中で聞けるような音だった。キーボードを叩く音や、パソコンの機械音である。しかし人物の動きである「インの音」と「フレーム外の音」の不一致が受け手の不安をあおる。そして混乱を誘うようにたまに音を一致させる。受けてはますます意味が分からなくなる。更に音量の強弱をつける、たまに「無音」を入れる、時に激しく、時に穏やかに。さまざまな方法で音が映像と同等の、いやそれ以上の影響力を持った。
ほんまに良い作品に仕上がって良かった。超満足な仕上がりでちた。
posted by かじゅき at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | メディア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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