2004年11月05日

「リクルート」

 合宿帰ってからなんか勉強する気がおこらず。でも何もしないのも気がひけるから映画を借りました。『リクルート』っていう映画。これがなかなか面白い。かずき君のつぼでした。多分今までで一番好きかも。何か考えさせられました。

 一番考えさせられるのは「真実」は何かということ。「リクルート」の中では、主人公は超頭良いやつ。でも「真実」は何かということにとらわれる。いくら頭良くても、いや頭よいからこそ「真実」は何かにとらわれたんかもしれん。
主人公のおやじは不思議な死を迎えた。おやじはCIAに入ってたと暗に知らされる。でも本人は聞かされるまでおやじはただの石油会社の社員やと思ってた。主人公は、「真実」を知りたくてCIAに入る。
CIAの中では何が「真実」かもわからない。おやじは何者か、恋って何か、仲間って何か。全部が嘘に見えて、全部が真実に見える。
 
でも「真実」ってないんやと思う。おやじがCIAに入ってるのも本当で、石油会社の社員のおやじも本当。客観的には嘘でも、本人にとってそれが本当に見えたら本当なんやと思う。
絶対的に1つの「真実」はない。見る角度によって違うものに見える。でも、社会は1つの「真実」を突きつけてくる。それはマスコミかもしれないし、家族かもしれないし、学校かもしれない。視覚、聴覚をフルに動員させて、数字・証明書・を利用したりして、「真実」を押し付ける。そして、人間は「真実」を求めるほど泥沼にはまる。
posted by かじゅき at 00:07| 京都 ☀| Comment(7) | TrackBack(0) | 作品論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月30日

介護入門

 今日モブの「介護入門」読み終わりました。俺には文章の良し悪しはわからんし、芥川賞取る位やし、やっぱりそれなりにはいいんかもしれん。まぁ基本的には内容面でしかコメントができないのがつらいれす。

 モブはしきりに言う。介護ってのは、「血の優位」なんてもんじゃない、「記憶の優位」だと言い切る。確かにそうかもしれない。っていうか、介護以外の全てに言えること。結局は、「血の優位」ではなく「記憶の優位」やと思う。いや「記憶の優位」ってのも怪しい言葉なんかも。あくまで理論上では。
 
でも自分の体験と照らし合わせると、そう言い切ると少し躊躇する部分はある。それが「血の優位」かんと思う。俺の場合、小6のころ入院してるおかんを見舞いに行った。おかんの体からは、何本もの管が出てた。その管からは、排泄物が流れ出る。はっきり言うと汚いもの。たぶん匂いも臭かったと思う。
何かのアクシデントで管から、液体が流れ出る。そして床一面に液体にみるみる広がる。その時、迷わず液体をふき取ろうとした。俺のその時の行動は何やったんやろうか。「血の優位」があるから、体が勝手に動いたのか??それとも「血の優位」というものが社会に充満してるからこそ、おかんを傷つけないないために自分から拭きに行ったのか??

これに対して他人に意見を求めたとき、きっと前者やと答えるやろう。というかむしろ後者ということができない。それが「血の優位」の力。何だかんだいうても、親、兄弟の話になると他人は口が出せない領域になる。そういう「血の優位」が社会にはあると思う。

もぶはそれにどっぷりはまってると思う。「血の優位」何て糞くらえっていいながら、結局世話をしない親戚に苛立ちを覚えている。「記憶の優位」を主張するなら、親戚以外にも怒りをぶつけても良いと思う。でもその選択肢はもぶにはない。ただひたすら親戚に文句意を言う。
そして介護職の人にも文句を言う。偉い人もいると言う前置きはあるものの。所詮他人にはわからんし、金目当ての者たちよみたいな言い方をする。

あと一番疑問なんは何で主人公は働かないん??それが最後までわからんかった。
posted by かじゅき at 01:34| 京都 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年07月28日

『風の歌を聴け』

 今日(27日)は前期テストのお疲れ会でした。ということでゼミのメンバーで飲みに行きました。んで梅田出るついでに紀伊国屋をぐろと一緒にまわりました。一万円をくずしたかったので何か本を買おうとしたんやけど何欲しいかわからん状態。ふいにbeaune君のホームページを思い出す。そして意思決定!俺も小説読もう。
 そうと決まれば小説読んでるぐろにお薦めの本を選ばせる。村上春樹「風の歌を聞け」と松浦理恵子「ナチュラルウーマン」を買う。んでついでにゼミのピーターパンが「創価学会」の新書の話してたし買ってみた。

本を買って集合場所に行ってみるとどうやら見たことあるメンバーばっかり。結局ほぼ裏ゼミメンバーという感じでした。ピーターパンのお薦めの店でわいわい飲みました。結構いい感じに酔いましたよ。のほほーんとした空気で盛り上がる。でもでも酒の席でも戦うのが山口ゼミっぽい。しょーもない話から急遽戦争状態へ突入。こうなればもはや男性の戦いに。大河ドラマ「新撰組」の読み方で議論がもめる。まあ面白いしいーんやけどねー。
俺のブログの書き方でも論争が起こる。基本的にはブログは文章力を鍛えるためにやるってはじめたもの。そんでそれをさぼらないために公表して周りに見張ってもらう意図があった。でも書き続けるうちにコメントや返答を求めてる部分を指摘される。「それなら文章・内容をもっとやわらかくしたらいいのにー」と言われた。よくよく考えるとやっぱそうやなあって思う。まあできるだけ内容はこのスタイルで文章とかをもっとやわらかくしたいと思います。店出るときにちっと話してたけど、巽くんにはお手本文を書いて欲しいでする。

んで家帰って小説デビュー戦。とりあえず村上春樹を読む。軽くすっとばして読んだだけやし、いまいちわからないんやけど、この本ってどんな感じなん?最初から最後までストーリーになってるんやけど、作者が一冊を通して言いたいことってやっぱあるん?1章ごとに1つづつ何かネタがしこんであって、要所要所おもろい考え方やなって思う。「ピンボールにおいての、賃金と死んだ時間の交換」、「ポンコツ車においての、何処かの修理は別の箇所が目立つ」とかが気になったかなあ。でもやっぱりまだ全体を貫通する主張があるかはわからなあーい。また誰か教えてなー。
posted by かじゅき at 03:21| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月28日

尾崎を通して見た「愛・夢・自由」

 教育社会学の「尾崎論」を学んだあと自分なりに解釈した小レポートです。基本的に尾崎の世界観とは異なるんやけど、尾崎の歌詞を聞いてて浮かんだ論でする。
「愛・夢・自由」というのは市民社会の外にあるものではないと思う。むしろ市民社会の中にしかない。市民社会が成立していく上で生成されてきた産物である。そういう意味で私は「愛・夢・自由」を市民社会の3つの神器と呼ぶ。
 その3つの要素を1つ1つ検証する。まずは愛である。市民社会の外に恋愛というものは存在するのだろうか。好き嫌いの感情はあるかもしれないが、市民社会のように恋愛感情を特別な感情にしてはいない。市民社会は、同性愛・近親相姦を強烈に禁止するために恋愛という感情を生成したのではないだろうか。
 次に夢。市民社会の外に夢はあるだろうか。身近な目標はあるかもしれない。しかし抽象的で達成困難なものはない。市民社会は、市民に常に夢を持たせ、夢を達成すれば新たな夢を持たせ、夢を持たないものは排他する。この様に夢は、市民に常に目標を持たせ発展・成長を強要する。
 最後に自由。もし不自由というものがない社会、つまり秩序がない社会においては自由の概念は存在しない。不自由というものがある社会にはじめて自由が求められる。市民社会はその不自由というものを気づかせないために自由を強調する。しかしそれは所詮秩序の中の決められた範囲の自由である。
 これらの市民社会の3つの神器は、市民社会生成において生じるさまざまな不都合さりげなく隠蔽するための3つの道具であるといえる。
 中には、3つの神器が市民社会の産物と気づく人もいる。しかし「愛・夢・自由」を市民社会の外に求めることは無理である。3つの神器は市民社会の産物であるからである。私たちはそのような市民社会を生きるためにはどうしたらいいのか。私の答えは尾崎豊から引用しよう。「豚を食うな、鉄を食え」である。
 「豚を食うな」は市民社会にどっぷりはまっている豚にはなるなということである。逆に「鉄をくえ」は、たとえ市民社会がつくり出したもの、つまり3種の神器であっても食いながら生きろ、死ぬなということである。この息苦しい市民社会の中で、嘘で作られた「愛・夢・自由」であっても、与えられたものをそのまま受け入れるのではなく、自分でそれらを逆に能動的に利用しながら生きる。与えられたものからずらし続ける。私たちは、市民社会を巧みに生きるために、用意された市民社会の3つの神器を逆に利用することが必要である。
posted by かじゅき at 22:03| 京都 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月22日

鬼塚ちひろ『月光』

 土曜日の午後、びっくりするくらい暇やった。でも勉強する気が起こらんかったので、CDを借りに行った。適当にシングルを借りる中、なぜか鬼塚ちひろを取り上げてみた。んで借りてみた。んで何げなく歌詞を読んでみた。んで何げなくはまった。『月光』のはじめの4行で気にいった。今までカラオケのため意外に歌詞を読んだことがなかったので、「歌詞て面白いな」て初めて思った。
 他の歌詞も読んでいくうちに、はじめはありきたりな「恋愛中毒な人なんかな」と感じた。でも読めば読むほど違う気がしてくる。歌詞によくでてくる『貴方』という単語。本当のことは分からないけど、『彼氏』とは意味合いが異なるように感じた。『貴方』は、人物でない。そして何かを示すものでもない。「神のようで、神でないような存在」と感じた。極めて指し示すことのできないもの。
 しかしなぜそのような存在を求めるのか。彼女の歌詞のはじめの4行を見る。彼女の世界観が凝縮されている。腐敗しきった世界。どうやって生きればよいのかもわからない世界。このような世界観にも関わらず、死ぬこともできない自分。苦しくてもこの世界を生きなければならない自分。この世界に安心できる理由を求める自分。自分のようで自分でない自分。「死ぬ権利もなく、生きる義務だけが残る」。そんな悲観的な自分の心のよりどころになる『貴方』。この不合理な世界を合理的にしてくれるかもしれない『貴方』。その一方でその不合理な世界を作り出す『貴方』。矛盾だらけである。苦悩をつくり出すのも「貴方」、でもその『貴方』以外にこの世を生きる意味はないのであろうか。
 解釈は間違ってる可能性の方が高いけど、それでも何かひきつけられたので、今回歌詞について書いてみまちた。
posted by かじゅき at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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